仕事でハメを外してる

世間はゴールデンウィークに入ったらしい。いつも閑散としてる帰りの電車が、スーツを着ていない人間でいっぱいになっている。

去年のゴールデンウィークは、初めて大学受験生を担当するということで気持ちが奮い立っていた(何をすればいいのかわからず焦っていもた)ので、1日13時間×3日間みっちり勉強してもらう「GW特訓」を自分で企画して行った。その前の平日も普通に授業があったので、かなりの連勤になり、身も心もボロボロになった。
その反省もあって、今年のゴールデンウィークはいつも通り祝日休みで、加えて4/30から5/2の平日3日間も教室を閉めることにしたので、明日から9連休のはずだった。

それなのにぼくは連休に入る1週間前、急に思い立って、4日間の英検対策を行うことを決めた。急な話だったので料金を頂くわけにもいかず、ぼくが勝手にボランティアで行う英検対策、という位置付けになった。当然給料も発生しないし、しかも2級以上の子限定にしたので割と準備も大変なんだけど、それでもやりたいからやる。

人間はエコシステムの中に所を得て安らうことのできない欠陥生物であり、確定した生のサンスを持ち合わせてない、言いかえれば、過剰なサンスを孕んでしまった、反自然的存在なのである。

浅田彰『構造と力』

「生のサンス」とは、植物や動物が生まれて、生きていこうとする(そしてやがては死んでいく)その自然の流れ(目的とも言えるかもしれない)のことで、人間以外の生物は生から死の一直線の流れのなかで生きている。しかし人間は、生まれて死ぬを遂行するための目的以外の、過剰な目的を持ってしまい、人間以外の生物が持つ一直線の流れの中を生きることができない。
つまり人間は動物としての本能を超え出て、「生きる意味」とかを考えてしまう存在なのだ。一人一人が何かしらの「過剰さ」を持ち合わせている。その過剰さは、しかし社会を営むにあたっては完全に発揮させてしまうことはできない。だから社会的な秩序を作って抑圧する。その抑圧された一人一人の過剰さが、無意識の世界を作り出す。

酒を飲んでハメを外す人がいる。これは抑圧された過剰さが溢れ出て、発露した一つの形なのだ。じゃあ自分にとっての「過剰さ」ってなんだろうか?
この前友達と飲んでいたときに「生きてて興奮する瞬間はいつなの?」と聞かれて、少し困った。ちょっと考えて、仕事してる中でちょいちょい興奮する瞬間があるからハメを外すことはあんまりない、と答えた気がする。この文章は、それに対する回答でもある。

普段子どもに教えているとき、ぼくは目の前の子どもの思考の深いところに入り込んで、その子が目の前の風景をどんな風に見て、音をどんな風に聴いているのかを感じ取ろうとしてしまう。そして同時に自分の見ている風景や聴こえている音との違いを細かく分析する。その差分を伝えること、その差分を埋めようとすることが、ぼくにとっての「教える」という行為だ。
たぶん、ぼくはそうすることで目の前の子どもと深いところで繋がろうとしている。そこにぼくにとっての仕事のやりがいのようなものがあり、それこそがぼくの「過剰さ」の現れなのだと思う。
仕事の中で自らの「過剰さ」を発現させているような感覚があり、だからこそ、酒を飲んでハメを外すこと(=過剰さを発露させること)はあまりない。

今やっているGWの英検対策だってそうだ。9連休だったはずのゴールデンウィークに誰からも頼まれてない、やらなくてもいい仕事を勝手に作ってやっている。仕事でハメを外していると言えるのかもしれない。

そういえば浅田彰の『構造と力』では、生物の世界は「過不足のない世界」であり、「生が肯定される世界」であり、「善も悪もない世界」であり、「相互的・円観的統一」のある世界であると言っている。そして人間はその生物の円環的統一に憧れて、社会の秩序を打ち立てるのだ。エヴァンゲリオンじゃん。

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