ほんとうの自分はどこにいるのか?

大学受験がひと段落し、教え子たちの結果が続々と報告される中、都立高校の入試も無事に終わった。あとは高校受験生たちの結果を待つのみである。そしてこの時期が1番もどかしくて落ち着かない。

ぼくが所属している塾では都立入試の前日に、受験生全員に対して最後に激励のメッセージを送る。その場で口頭で直接伝えるメッセージだけでなく、口で伝えられない思いを(時間をたっぷりかけて)書いた手紙まで渡す。
目的はいくつかあるのだけど、最も大きいのはここまでの受験のプロセスに意味づけをする、ということである。

あなたはここまで努力を重ねてきた。受験の結果がどうであれ、とんでもない時間を勉強に費やし、過去問も延べ14年分やった。やるべきことをやり切って、本当に成長した。自信を持って試験に臨もう。

と言った感じで…。

そもそもこういった(過去に対する)意味づけというのは、本人の中の必然性に応じて自然になされるものであり、外側の人間がある種強制的にさせるようなものではないとも思うのだが、これについては今は考えない。(特に受験がうまくいかなかった子が、その努力の全て=自分の全てを否定してしまうことがあり、そうならないために必要なのだと信じている)

今回考えたいのは、こういった時間をかけて書いた思いですら、なにか自分がその子に対して「本当に伝えたい思い」とは少しズレてしまう感覚が常にある、ということである。
むしろ「ほんとうに伝えたい思い」が現れ出てくるのは、日々の些細な行動や、あまり考えず口走ってしまった言葉だったりする。「ほんとうの思い」というのは、常に自分の意識からすり抜け、無意識の中に逃げ込んでしまう。だから、意識的にその思いを言葉にすることは不可能であり、無意識的な自分の所作や口癖などに偶然現れ出てくる「ことがある」。

「ほんとうの思い」は「ほんとうの自分」に置き換えてみてもいいかもしれない。自分探しをしている人の多くは、常に自らの意識によってそれを把握しようとする。しかし、それは無意識の中に逃げ込んでしまっているので、意識的に探そうと思っても見つからない。出口のない迷路なのである。
逆に、自分が癖でやってしまっていることや、あまり意味のないこだわりなどの「享楽的な楽しみ」の中にこそ、自分の本質的な何かがある。



意識は常に本質を取り逃し、本質は無意識へと逃げ込んでゆく。だからどれだけ時間をかけたところで、「ほんとうの思い」には辿りつかない。

ただ一方で、全く時間をかけず適当なやり取りを短時間行って、その中での自分の無意識的な言動を見ていれば「ほんとうの思い」に辿り着くのかといえば、そうではない。
その子と長い時間をかけて対話し、関係性を築き、その子を巡って思考を巡らし、言葉を出し尽くした先に、それでも辿り着けなかったとき、それでも何か伝えたいものがあるときに、ポロッと出てきた言葉が、本質を捉えることがある。
「ほんとうの思い」を探し出そうとする意識の働きをすべて否定し切った先に、「たまたま」出てくる。
ここで重要なのは、「否定し切った」先に「たまたま」出てくるということである。意識の働きを否定し切るために、そこまで思考した時間も必要なのだ。そして最後は運。(ワンチャン出てくるかもしれないし、ワンチャン出てこないかもしれない)でも運よく出てきた言葉がそれだ、と感じられるためには否定し切られた状態が必要なのである。

結局、ちゃんと誠実に、時間をかけて向き合うことが重要だということだ。「ほんとうの思い」を巡る思考=意識の働きの先に、無意識的な運動が「たまたま」表出される。能動的な意識の働きではなく、受動的な意識の働き。(その言葉が出てくる原因が明確でないということから、中動態的と言うほうが適切かもしれない)


「ほんとうの思い」とか、私たちが本質と呼ぶようなものは、自分たちが行動の基礎としている能動的な意識や意志から常に逃れ、無意識に逃げ込む。能動的な意識や意志の側ではなく、受動的(むしろ中動態的)なものや無意識といったものの側に存在している。

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