感謝の表現方法は言葉だけ? 身近な感謝を探してみよう! 感謝は期待して得るものではない
コミュニケーション手段としての感謝
SNSなどに投稿をしていると、見ず知らずの方からの反応も多い。
初めましての方とのコミュニケーション手段として重要なのは、感謝の表現なのかもしれない。
価値観が合っても合わなくても、互いにその違いを理解する前提で俯瞰する。
価値観が合うという共感に、喜びの意を伝えるも感謝の表現。
価値観が合わずとも理解し合えたのであれば、新たな価値観を知るという意味では利益となり、感謝に値する。
見ず知らずの方から届く「ありがとう」
noteクリエイターの皆さんは、例えば創作者本人がそれに気付いていないにしても、何かしら思いがあって日々、作品を生み出していると思う。
作品を創作する上での心掛けのようなものを、心のどこかに皆、抱きながら。
自分自身に置き換えてみると、私は決して、読者から「ありがとう」と言われることを目標に創作していない。
心掛けていることとしては、思考の整理のプロセスを残しておきたいと思っている。
私が日々感じること、内面に溜めている思いのアウトプット、そういった思考の整理のようなものの保管場所。
未来の自分へのメッセージ要素が強いかもしれない。
もちろん、結果的に誰かから「あなたの記事を読めて良かった、ありがとう」という言葉を賜ることが出来たら、これほど嬉しいことはない。
見ず知らずの人からほど、嬉しさは増すように感じるし、憧れの念を抱く人からの思いがけない「ありがとう」には、次もまた一生懸命書こう! と、いうやる気も増幅させてもらえる。
見ず知らずの方へ届ける「ありがとう」
noteクリエイターの皆さんが抱く心掛けが、いかなるものかについては分からない。
しかし、時に優れているにも関わらず、読者からのリアクションが薄い記事に出会う場面がある。
私の感性の問題なのかは分からないが、私にとってはとても重要な作品である。
そのクリエイターにとっては心を込めて大切に作り上げた作品なので、読めた喜びを例え私1人であったとしても「ありがとう」と伝えたい。
一方で、価値観の違いを理解したことで得る「ありがとう」は表現しづらい。
これは自分自身の心にシャッターが降りているのだろうと推察する。
表現しづらいというよりも避けているということ。
コミュニケーション能力を上げる鍵はここにあるようだ。
価値観が合っても合わなくても、互いにその違いを理解する前提と、先に強調した。
新たな価値観を理解し、他者への感謝を通じて自己研鑽を積むことは、後の自己満足感や自己肯定感を生み出すことに繋がるように感じる。
感謝の表明と相手との距離感との関係
見ず知らずの方との初めましてのやり取りは「感謝の言葉」から始まると、ここまで述べてきた。
知らないからこそ、お近づきになりたいからこそ、その気持ちの表し方が感謝の言葉だと感じる。
初めましての方、これからもっと知りたい、親しくなりたい方への感謝の言葉は大切なコミュニケーション手段だ。
残念ながら異なる価値観が理解できず、知りたくない、近づきたくない相手には言葉すら残さないと思う。
では、言葉を残さなければ感謝の気持ちがないということになるだろうか。
私はそうは思わない。
「親しき中にも礼儀あり」という言葉があって、最もな言葉ではあるけれど、身の回りに置き換えて考えてみる。
私の今1番近い身の回りの存在と言えば夫。
共働きなので、どちらも基本的な家事炊事はこなせる。
結婚当初はやっておいてくれたことに「ありがとう」
逐一、感謝の意を表明したし、それがないと「ありがとうくらい言おうよ」という空気にもなったものだ。
今は違うのかというと、これが感謝の意は「ありがとう」で示すものではなくなっている。
なぜならば、お互いに心のどこかで「ありがとって言っておけば良いと思ってるよね?!」というフェーズに変わってきたからだ。
思っていても、言葉にすると逆効果になってしまう相手もいるのだ。
それは、親しければ親しいほどに。
感謝することと感謝の押し売りは似て非なるもの
私と夫との関係性での「感謝」で言えば、そこにはもう言葉はいらないと思っている。
人によっては「親しき仲にも礼儀ありよ」とお叱りを頂くかもしれないが、誤解を解いておくとすれば、「感謝」とは「言葉」で表すことだけに留まらないと私は考えている。
前述したように「ありがとうって言っておけばすむと思ってない?」という状況下に、そもそも感謝の意は込められているだろうか? と。
私が食器を洗うから夫がお風呂を洗ってくれる、夫が食事を作ってくれるから私が洗濯物を干す。
ここには、言葉がなくても感謝の気持ちが表れ、嫌味なく「洗い物ありがとう」「ご飯の支度ありがとう」が言えるようになる。
因みにこれは我が家の今のスタイルであって、いつの日か私の身体が動かなくなり、夫が一手に何もかもこなすことになった場合、私は一体どうやって夫に感謝を伝えたら良いだろう? 「ありがとう」だけではとても足りないな……と、ふと考えてしまった。
あるいは、私が「ありがとう」と言えば言うほど、夫にとって重荷になりはしないだろうか? と、いう懸念も生じる。
その日が来るまでには見つけておきたい宿題である。
感謝されるほどの言葉だったかを自問する
私は決して、読者から「ありがとう」と言われることを目標に創作していない。
と、豪語したにも関わらず、ある程度の数のファンがつき、常連のスキやコメントを頂戴できるようになると、傲慢にもこの意識が低迷してしまっていることにふと気がつく。
自戒も含めてであるが、感謝の言葉ありきでのコメントを読者に期待してはいないだろうか?
クリエイター側が読者側に感謝を期待する場面に限らず、読者がクリエイターに感謝を期待してコメントをしているような場合も同様。
返信内に感謝の言葉がないことで関係が悪化するという事態も稀に見受けられる。
初めましての方とのコミュニケーション手段として感謝の表現は重要と、冒頭で述べたが、ある程度の交流が続いた関係で、どこまで、いつまで、言葉での感謝は必要だろうか。
言葉がないと感謝の気持ちがないと言い切れるだろうか。
言葉にしなければ分からないとはよく言うが、言葉にしても真意が伝わらない場合や、曲解して伝わってしまう場合は往々にしてあるのだから、必ずしも感謝の気持ちが言葉である必要性を私は感じない。
何度も言うが、感謝をしなくて良いということではない。
感謝の表現方法は言葉に限らないということ。
スキのリアクションが届いていたり、コメント内外での楽しい会話であったり、記事の紹介であったり、有料記事の購入だったり、究極の表現にはサポートという形もある。
感謝の言葉がないと感じた場合には、今一度、普段のやり取りのなかに相手の気持ちがこもった「何か」を受け取っていないかを思い返したい。
その人なりの感謝は届いているものだ。
私はその届いている気持ちにこそ感謝したい。
本当に嬉しいと思ったときこそ、人は気持ちを表現することができるのだと感じる。
届いていなければ、それほどのものを提供出来ていないということ。
精進するのは自分自身。
伝えるべき時に伝えるべき人に
一番大切なことは、「ありがとう」の乱用ではなく、伝えるべき時に伝えるべき人に伝えられているかどうか。
関係性や距離感に限らず、嬉しかったときには素直に積極的に感謝の気持ちを届けたい。
ありがとうございます😊 小さくても沢山の幸せを届けられるように頑張ります!