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終わりなきコメント論

先日、拝読したとある記事にて。
私は「わたしの思ふところ」があることに気が付いた。

noteは創作の場。
ただし、ジャンルはかなり様々で
ある人は絵を
ある人はブログを
ある人はつぶやきを
ある人はエッセイを
ある人は小説を
ある人は教養を
ある人は音楽を
ある人は古典を……
かなり多岐に渡る手法で表現される。

それぞれが独自に自己表現の場として利用し、
ジャンルを超えてその「芸術」を目の当たりにできる。

創作者と鑑賞者の距離感も近く、コメントやクリエイター問い合わせメールにて直接感想を述べることができる。

「とても感動しました」
「読めて良かった」

感想として最もシンプルで、最も使われる言葉。
交流が深まるにつれ、記事があがればコメントするのが癖になる。

ここで、私は「シンプルな感想」以上の言葉を伝えることに躊躇いを覚えることがある。

それは一体どういうことか?

文庫本を読んで、感想あるいは批評を作者に直接送る読者はどれほどいるだろうか?
少なくとも私はそんなことはしたことがない。

出来ないからしないのだろうか?
熱烈なファンならファンレターくらいは送るだろうか。
全く面白くなかったらどうだろうか?
「今回の作品、全然ダメ」「どうしてこんな(酷い)内容書けるんですか?」なんて手紙を書いたり、SNSにあげるだろうか?

他の人の考えは分からないけれど、自分自身を俯瞰すれば私は、ファンレターは送ってもアンチレターは送らないだろうなと考える。
ファンレターを書くとしても、あまりくどくど余計なことは言わない。
そもそも語彙力が乏しいのでトンチンカンなことを言うのを避けるため、あくまでも、シンプルに。

なんでだろう? と、一つだけ考えられることがあるなら、文庫本には「前書き」や「あとがき」が大抵付いていて、作者がどんな思いでその作品を書いたかが分かるようになっているからではないか。

創作にあたっての作者の思いがそこに記されていることで、読者が勝手な思い込みのまま読み込むリスクを下げているように思う。

noteに関して言えば、どのジャンルで記事をあげようと、一画面上下スクロール表示一択。

文字数制限がないとは言え、極端に長い記事は読みづらくなる。

「前書き」「あとがき」が付いた記事はほとんど見かけない。

作者の思いを置き去りに、読者が勝手に背景を変えてしまうリスクを孕んでいる。

「あぁ、そういうことが書いてあるように思わないけどなぁ」という作品に、トンチンカンなコメントが残されているのを見かけた際には作者さんが気の毒になることもある。
反対に、私の解釈が間違っていてトンチンカンだと思ったコメントの解釈通りだった場合、「うっかりコメントしなくて良かった」と安堵することもある。

思いをダイレクトに綴るエッセイと違って、微妙なニュアンスで作品の活き方が変わる小説や短歌・俳句では、解釈は様々になるように思う。
絵に至ってはもっと難しいだろう。

文豪たちの名作を後世の読者が好きに解釈し、紐解いて議論するのは自由だが、本人が聞いたら失笑しかないのではと想像してしまう。

私の場合はただの素人作者なので、違った解釈をコメントで頂戴すれば、真意をお返ししたいと思う。
それが「あとがき」となり、私の作品の完成形となるなら。

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