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妊娠日記7 「ママになること」にどうしても憧れられなかった

「いつかひょっとしたら、母になることもあるかもしれない」。
そんな意識が、うっすらとではあってもいつも頭の片隅にある状態で、女性として年月を生きてきた。

まだまだ妊娠&出産が現実味のある未来として迫ってきていなくても、閉経するまでは「絶対にない」とは言い切れない。
「もしかしたらいつか私も?」という意識がすこしでもあるか、それとも男性のようにまったく無いか。
それで見える世界はだいぶ違うと思う。

「産むかもしれない性」として生き、世の中を見てきたなかで、私の中には私なりの「母になる」ということへのイメージが醸成されてきた。
残念だけれど、それはあまりポジティブでハッピーなものではない。

見てきた世界がきっと違うから、男性である彼にどこまで伝わるかはわからない。それでも、ほんのすこしでもいいからわかってほしくて、電話で彼に話した。
これまでの人生で私のなかに積もった「母になる」ことへの苦いイメージと、妊娠が現実味を帯びたいまの葛藤を。

何年か前に見た、忘れられないシーンがある。
本当にごくありふれた、珍しくもない一コマなのだけど、強く記憶に焼きついている。

よく行っていた六本木けやき坂のスターバックス。
私はそこでパソコンをしていたのか本を読んでいたのか覚えていないけれど、一人で過ごしていた。
ひとりの女性が片手で赤ちゃんの眠るベビーカーを押し、もう一方の手で3歳ぐらいの子の手をひきながら歩いてきて、ちょうど私の目の前に席をとった。
それから彼女はレジに向かい、ドリンクとフードがのったトレーを持って戻ってきた。
しかしトレーをテーブルに置いた途端、タイミング悪くベビーカーの中の赤ちゃんが泣き始めた。
飲みものに口をつける間もないまま、女性は赤ちゃんを抱いてあやし始める。
赤ちゃんは一向に泣き止まず、どんどんその声は大きくなるばかり。
彼女は結局注文したものに一口も口をつけないまま帰る支度をし、そそくさとお店を出て行った。泣きやまない赤ちゃんを乗せたベビーカーを押し、幼児の手を引きながら。


時間でいえば、たった10分ほどの出来事だったと思う。
でも私はその光景に、ちょっと自分でも戸惑うほどに絶望した。
それは私にとって、母親になった女性が失うもの・諦めなければいけないものを端的に示すシーンだった。


ただカフェでゆっくりしたかっただけ。
それだけだったはずなのに。
「ただそれだけ」と思うようなこともできなくなるのが、母になることであり、自動的に受け入れなければいけない宿命なのだと感じた。

いま当たり前に、呼吸をするように当たり前に享受している自由(わざわざ「自由」なんて思ったこともないほどのこと)が、母になると手の届かない贅沢品になってしまうのか……

たった10分見ていただけでこう感じるのだ。
もしあの女性の24時間をつきっきりで観察したら、いったいそこに私はどれだけ彼女が失ったもの・諦めたものを見ることになるんだろうと思った。

もちろん失ったり諦めたりする一方でなく、喜びや楽しみや幸せだってたくさんあるのだと思う。
でも私はまだこちら側からしか見ることができない。


きっと彼女はパートナーが昼間働いており、日中は二人の子どもを一人で見なければいけないのだろう。
買い物とか、ちょっとそこまでの外出も、0歳児と3歳くらいの子を残して一人でふらっと身軽に行くことはできないのだろう。
一方の手ではベビーカーを、もう一方の手には幼児を引いて。
そんなふうにして、両手に絶対に自分が守らなければいけない小さい命を抱えながら外に出て何かをすることは、一人で同じことをする時の何倍もの時間と体力と注意力がいることなんだと思う。

そしてあのカフェに入った時はほうほうの体で、やっと休めると思ったのかもしれない。
「やっと座れる、やっと落ち着ける、やっと喉を潤して少しおやつでも食べて」と。

でも大人の都合にお構いなしで、赤ちゃんは泣きたい時に泣く。
周りの人の視線が矢のように飛んでくる。
いえ、たとえ誰も咎めるような目つきで見てこなくても、もう自分の気持ちの方がだめになってしまう。
迷惑って思われてるだろうな、さっさと出て行けって思われてるだろうな、と。

そうしてそそくさとお店を出て行く、その時の気持ちはどんなものだったんだろう。
心の中では泣きたかったんじゃないかな。
それともそんなの日常茶飯事で、いちいち悲しんでもいられないのかな。
 

たった10分ほどのその光景は、大学生だったか社会人になりたての私に、漠然とした、でも大きな不安を抱かせるに十分なインパクトを持っていた。

わが子がぐずり始めたときの彼女の焦りぶり。
それを見るだけでも、いつどこで泣くかわからない赤ちゃんを連れた母親に世間がいつもどんな目を向けているのか、想像できるようだった。


正直、ああはなりたくないと私は思った。
「お母さんになりたい」「ママになるのが夢」。
私はそんなことを無邪気に口にしたこともなければ、思ったこともなかった。

素直に憧れることのできるママが、あまりにもすくなかった。
やはり女性を見れば同性同士、その人が自分にどれほど手をかけているか、普段どれくらい自分をケアしているか、というのは一瞬でなんとなくわかるもの。

そして普通に暮らしていて、「この人はとても自分に手をかけられているのだなあ」と感じられるような赤ちゃん連れ女性は、少なくともこの国では本当に珍しい気がする。(海外事情は知らないけれど)

べつに、自分に手をかけることやおしゃれをすること、身綺麗にすることが女性のすべてではないし、そこで女性の価値が決まるわけでも全然ない。
でもどうしても、「自分に手をかける余裕がない女性に憧れることは、まだ私にはできない」というのが、身も蓋もない本音だった。


ほかにもある。
ベビーカーを持ってバスに乗ることの是非が論争になったり、電車の中で妊婦さんのお腹をわざと押す人がいることがニュースで取り上げられたり、悪意を向けられるのが怖いからと、本当は席を譲ってほしい時があってもマタニティーマークをあえてつけずに電車に乗る女性も多いということが話題になったりするたびに、私は心の底からうんざりした。
本当に、うんざりした。
今だってうんざりしている。


もちろん出産や育児には、それを経験した人にしかわからない、深い喜びや幸せがあるのだと思う。
それに実際、こんな私ですら「ママになるって楽しそう」と素直に思えるくらいにはストレスなく心から楽しんで育児をしている女性だって、知り合いにいる。


だけどやはり出産という命がけの営み、そしてそのあとで待ったなしに始まる壮絶な育児の日々、そこに自分の時間も体力も気力も全てを捧げる女性たちがあまりにも報われていないのではないか、
お母さんたちはもっともっともっともっと全方位から優しくされていいのではないか、どんなに優しくされたってまだ帳尻が合わないくらいなのに、と私には思えた。


とはいえ、こうしてネガティブな側面ばかりに目を向けてしまうのは、やっぱり私が自分で長年かけて培ってきた「出産&育児=女の不幸の始まり」という分厚い思い込みのせいではあると思う。
思い込みは、変えられる。

日本にいたら「出産や育児って本当に大変そう」という不安が先行するけれど、海外だとみんなもっと気楽にのん気にやっていたりするし楽しそうだし。
妊娠した以上、もうこれからは自分が明るい気持ちになるような人や情報に目を向けようと思う。
最後はそんなふうにまとめて、自分の思いを彼に長々話した。


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