見出し画像

アドラー心理学が人生の質を5倍増くらいにするかも

ママボランに入会してもうすぐ2ヶ月。カウンセリングやボランティアは既に始まっているが、このプログラムは多彩な研修も受け放題なのである。満を辞して初回の研修デビューを果たした。

その名も「幸せに働くためのアドラー心理学」である。

改めてのアドラー

アドラーといえば日本でも一躍ブームとなった名著「嫌われる勇気」で知られる。勿論私も例に漏れず本を読んだ。
第一子出産後にパニック障害らしきものや、謎の体調不良と格闘し死にそうな毎日を送っていたこともあり、少しでも楽になりたいと独学で勉強したこともあった。

よって一応、浅く広く、くらいは知識としては知っていたが、研修という形で特に自分の職場環境や子育てを振り返りながら参加するのは初めて。新鮮だったし得たものも大きかったので記録しておく。

共同体感覚

アドラーと聞いて真っ先に思い浮かぶのが、この言葉である。共同体感覚は、所属感・貢献感・自己受容・他者信頼の4つから成るが、その全てが満たされていればいるほど幸せ度が高いという。

ワークの中で、自分の環境に当てはめて10点満点だとしたら何点か、付けてみましょうというものがあった。

勿論、絶賛悩み中の職場環境についてやってみる。

所属感 3
貢献感 6
自己受容 4
他者信頼 2

低すぎる。ぶっちゃけてしまうと、社会人10年以上やってきて、初めて「職場の人間関係」の壁にぶち当たっており、復帰が憂鬱でたまらない。これまで人間関係絡みで悩んだことがないため、免疫、スキル共にゼロに等しく、少しでも信頼できそう(と信じている)人に相談したりはしたのだが、全く解決に至らないまま産休に入った。

それが、如実に数字に現れている。
貢献感が比較的高いのは意外だが、あくまで直属上司をはじめとしたレポートラインの人々とうまくいかないだけで、その他のチームや社員の方々とは良い関係が築けているし、自分のやっている仕事に価値もそれなりに感じている。

それだけがまだ救いである。

しかしながら共同体感覚という意味ではとても低いこの数字。どう頑張っても「この職場で働いていることが幸せです」とは言い難い。

はてどうすれば良いか。

目的論

目的論という概念がある。人の行動、発言、そして感情までもが何かしらの目的のために発生しているというものだ。

パニックに悩んでいた6年前、この症状自体にも目的があるのだと知って驚愕した。結局その目的とは何なのかはっきりとは分からなかったが、なんとなく「人に弱い所を見せたかった。いい加減、完璧な人間演じるの疲れた。鎧を脱いで、人と繋がりたかった、優しさ、温かさに触れたかった。助けてもらいたかった。寂しかった。苦しかった。」ーそんな所かもしれないなと当時思った。

なんとなくそんな思いを持った所から、症状は寛解に向かっていったのである。今ではほぼ完治、どこぞの他人の話のようにすら感じる程だ。

バスの中やお店でたまに見かけるが、無駄に大きな声を出したり、怒鳴っている人がいる。
そういう人は大きな声を出す、怒鳴ることで「自分の存在意義を示す」「自分は偉い、上だ、怒らせると怖いぞ、みたいなアピールをする」という目的を果たしているという。

逆にそういう手段を取らないと、存在意義を認められない、自分で認めることができないのである。

いちいち発言が高圧的でマウントを取ってくる職場の先輩のことが浮かんだ。

認知論

人はそれぞれ独自の(メガネをかけた)世界を見ているというもの。
自分も含め、全ての人が“主観”でものを見ている。そこには色々なバイアスもかかっている。が、普段はそのことになかなか気づけない。

なかなか分かり合えない上司が思い浮かんだ。謎の言動が多い上に、評価はとても辛口。
だが彼女はそういう世界で生きてきたのかもしれない。本人は「謎の言動」だなんて勿論思ってもないだろうし、私にとってはコミュニケーションがとても難しいのだが、本人にとっては至って普通なのだろう。

彼女は彼女のメガネをかけた世界を生きている。
私は私のメガネをかけた世界を生きている。

ただし「認知」は変えられるものだ。
心理学の世界で「認知行動療法」というものがあるが、認知が変われば行動が変わり、物事をもっと良い方向へ転換させることができる。

それが成長や進化、というのかもしれない。

課題の分離

共同体感覚に次いで、こちらも「アドラーといえば」の概念である。

相手と自分の課題を混同してはならない。ましてや相手の課題を自分のものにしてしまうことで、相手の成長や学び、気づきの機会を摘み取ってはならない。

猛省した。小1の息子に対して100%やってしまっていたことである。
宿題をちゃんとやるように。翌日の準備を早めにやるように。忘れものしないように。遅刻しないように。

更にひどいことに、私は息子の机の上の片付け、ランドセルの中のぐちゃぐちゃの整理までやってしまっていたのである(見るに堪えないから、、)。

今すぐ!やめようと心に誓った。
息子の机が散らかっているのは、息子の課題であり、私の課題ではない。ランドセルも然り。

散らかったままだとどうなるか。そこで宿題をやるとどうなるか。ランドセルの中でプリントが破れたらどんな気分か。そんなことを考えさせ、気づかせる機会を全て奪っていたとは。

もしかしたらこれが一番、今回の研修で衝撃だったテーマかもしれない。

課題の分離、課題の分離。肝に銘じておこう。

勇気づけ

勇気づけ。本を読んでもこのテーマは正直、子どもを持つ前は自分事として捉えていなかった。後輩もいなかったし、勇気づける対象がいなかったから。

勇気づけの反対で、「勇気くじき」というものがあるらしい。

勇気づけに繋がるコミュニケーションは、
貢献や感謝に注目、プロセスを重視、他人と比べず個人の成長にフォーカスなど。
一方、勇気くじきのそれは、
能力や勝敗に注目、結果のみを評価、他人と比べるなど。

私の現在の職場環境は、完全に勇気くじきのコミュニケーションだけだな、、ということに軽くショックを受けたが、それは今回は置いておくこととする(本当は置いておきたくないのだが)。

大切な我が子達には、勇気づけのコミュニケーションを意識してやっていきたいと強く思った。

ちなみに人は勇気を“くじかれる”と、やたら褒められたがる、正当化する、嫌がらせをする、などの反応が段階的に現れるらしい。

またしても、高圧的なあの先輩が脳裏に浮かんだ。

職場の人々

相性ってほんとにあるんだなと思わず痛感させられるくらい相性が悪い、分かり合えない上司。
やたら圧をかけて周りをビビらせ、いちいちマウントを取ってくる先輩。

アドラー心理学的にどう見るか。

これまでの私は、いやそれでも人の心は持ってるんだから、とか、言っても人の親なんだから(二人とも子持ち女性)とか、淡い期待を持ち直しては、少し歩み寄ったりして、期待をことごとく裏切られてきた。

しかし、人を信じたくなってしまうのは私の性分で仕方ないのだが。
そういう態度を取るのは相手の課題であり、私の課題ではない。こちらがそれに付き合ってあげる必要はないと気づいた。

そして同時に気づいたこと。
彼女らは

  • どこかで勇気をくじかれた人なのかもしれない。

  • 「自分の存在意義」「自分の能力」を認めてもらいたいという目的のために、人に圧をかけているのかもしれない(バスやお店で怒鳴るおじさんと同様)。

  • 「そういう世界」で生きてきたので、それが当たり前なのかもしれない。

こんな風に捉えるとだいぶ違う。
そもそも彼女らに限らず、人は皆それぞれ違うものだから、どんなに気が合うと思っている友人だって、色々な角度から見れば結構違うものだ。

それぞれが独自のメガネをかけて生きてきているから。

しかし例の先輩に関しては、勇気をくじかれた説、存在・能力認めてほしい(という目的を果たそうとしている)説、ビンゴだな、と思った。なんだか哀れにすら思えてきた。

アドラー心理学はまさに幸せのための学問であると改めて思う。
人生の質が軽く5倍増しくらいにはなるのではなかろうか。

職場の人間関係に疲弊していた私ですら、なんなら少し上に立って、全体を俯瞰して、彼女らや周りの人達を見れそうな気がしている(まぁ、実際の関わりが始まったらギャーギャー言うのであろうが)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?