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妊婦時代の話

2021年9月に我が家の第二子となる娘が爆誕した。一年延期された東京2020オリンピック・パラリンピックに日本中、世界中が湧いていた頃、我が家は6年ぶりにやってくる赤ちゃんに湧いていた。

が、実は娘が産まれるまでの道のりは波瀾万丈であった。

長くなりそうなので、次回以降シリーズ化してお届けしたい。

実は6年前、息子が産まれるときも色々とトラブルがあり、私は平和な妊婦生活とは縁がないのだなと改めて思う。
世の中、マタ旅などといって安定期に旅行を楽しんでいる妊婦さん達も沢山いるが、ひたすら羨ましかった。

◇◇

6年前、息子が産まれた時の話をしよう。
俗に言う安定期であるはずの時期に、突如、切迫早産で寝たきり生活を送ることとなった。ある日突然会社に行けなくなり、仕事関係は相当バタバタした。

入院しても良いレベルだったらしいが、自宅安静を選んだ。その選択が正しかったのかは分からないが、平日は朝から深夜まで(旦那が超絶激務だった)1人きりの寝たきり生活は、とてつもなく不安で、一日が過ぎるのがとても遅かったのを覚えている。

今産まれてはいけない」お腹の張り止め薬を飲みながら、ヒヤヒヤして過ごす毎日はとても穏やかなものではなかった。

体を動かすことができないため、毎日深夜帰りの旦那に家事をお願いし、自分はただ横になっているだけ、というのもいたたまれなかった。

大切な命を守るためーと、自分に言い聞かせて一日一日を潰していった、2015年の夏。

そう、夏であった。毎日暑くて、このまま1人で干からび死ぬのではないか、とすら思った。電気ポットで生存確認をされる、一人暮らしのお年寄りの気分になっては、いやいやいけない、私はこの子を絶対に元気に産むんだ、と気を強く持った。

結局絶対安静を守り抜いた末、今度は予定日を超過しても一向に産まれず、気を揉むこととなった。
あれだけ「早く産まれないように」あらゆる策を打ってきたというのに、今度は「一日も早く産まれるように」急に運動などを強いられるようになるのだ。長らく続いた寝たきり生活で、体力はほぼゼロとなり、近所へすら歩けない程になっていたので、少しずつリハビリをしたのも良い思い出である。

最後は無事に産まれたのだが、実は出産時に羊水が肺に入ったとかで、うまく呼吸ができずしばらく保育器に入っていた。常に酸素濃度を測って状態を確認し、不安な日々が続いた。

そんな風にして産まれた息子も、今や小学1年生。全くの健康優良児である。
今更ながら健康に産まれて、ここまで元気に育ってきてくれていることに感謝したい。

◇◇

あれから6年。二人目の妊娠発覚は素直に嬉しかった。

待望の第二子。満を辞して降臨!といった感じであった。

実は息子が産まれて数年は、とても二人目どころではなかった。世の中には2歳差、3歳差で下の子を産んでいるママが沢山いるが(それどころか年子まで)、到底考えられなかった。

両親は遠方、旦那は朝から深夜まで馬車馬のように働く完全ワンオペ。
息子の育児が想像を絶する大変さで、心身のバランスを崩していた。多分ノイローゼになっていたし、パニック障害やら、謎のアレルギーやら、ほぼ死にかけていた。


友人は「私の体の半分が粉になっている」と独特の表現を使い、心配してくれたものである。

たとえ粉になっても、息子にはめいっぱいの愛情をかけ育ててきたつもりである。

同じような毎日の繰り返しに思えても、子どもは確実に成長する。あんなに手を焼いた息子の育児が、4歳を過ぎてから急に楽になったのだ。本当に、驚くほど。

粉と化した私の体の半分も、ようやく原型を取り戻したと感じた頃、ようやく二人目を考えられるようになった。

◇◇

気づけば6年の歳月が流れていた。時代は平成から令和になり、世界中がコロナという得体の知らない脅威と闘うーそんな混沌とした世の中に、娘は来てくれた。

が、今回もトラブル満載の妊婦生活。
息子の時とはまた次元の違う問題が浮上し、命について、親になることについて、深く考えさせられた。

妊娠・出産、命って不思議である。運命もまた。
娘がベストなタイミングで来てくれ、教えてくれたのだと思う。

波瀾万丈、ドラマの数々は次回以降、紹介させてもらいたい。

最近子育てにイライラしてばかりの毎日であったが、色々と思い出したら優しい気持ちになれた。

私たち夫婦の元に来てくれた子ども達。
いくつもの奇跡が、偶然か必然か繋がって、誕生した命。

命、運命、宇宙・・・
ちょっとスピリチュアルな方向にいきそうなのでここら辺で失礼する。

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