大島優子と何の役にも立たないボールペン ~元夫を見送った夏~
初めて降りる駅。駅前からタクシーに乗り、住所を告げる。
同じ住所が何軒もあり迷ったが、表札のような紙が貼ってあり、ここだとわかる。
主のいない家に入るのは、どこか後ろめたくてせつない。
鍵を差し込み、玄関を開ける。
ああ、こういうところに住んでいるのか。
部屋に入ると、大島優子が笑って出迎えてくれた。
ここは元夫の家だ。
8月3日(水)
ものすごく暑い日だった。
7月末で仕事を辞めた娘が、8月はゆっくりする、まずは部屋を片付けると言い、ニトリで衣装ケースを探し、パフェを食べて、夕飯は手巻き寿司にしようと本マグロを奮発して浮かれて帰ってきたら……。
ポストに「私の旧姓+娘の名前」という不思議な封書が入っていた。
切手が貼ってない。
元夫の勤務先の上司からの手紙だった。
元夫が、膀胱がんの末期で、主治医がご家族に病状を説明したいと言っている、
本人がお嬢さんと奥さんに会いたがっている、
いろいろと事情はあると思うが、病院に行って会ってやってくれないかという内容だった。
離婚してから18年、私も娘も元夫には一度も会っていない。
住んでいるところも知らないし、私は連絡先も知らない。
離婚の理由は詳しくは書かないが、離婚に際して、少しの慰謝料と、私の父と共有名義だった住宅ローンが残っている家をもらった。
元夫は大変な借金をして、それを退職金で返済したはずだったが、そうではなかったようで、払うと言っていた住宅ローンを2か月で払わなくなった。
私は元夫の住宅ローンを自分名義に借り換えて、その後16年かけて完済した。
離婚した時、私は47歳。ライターとして少しだけ経験があったが、学歴もキャリアもなく、50社以上応募したが書類選考に通ったのが4社だけ。
そのなかで唯一採用されたのが3か月の業務委託の仕事だった。
その会社と縁が続いて、業務委託→契約社員→嘱託社員と2020年にリタイアするまで17年働き続けることができた。
神様が、男運のない私に仕事運だけは授けてくれたと人には言ったが、
それだけじゃない。
私が必死で働いたからだ。
この日まで元夫のことを思い出すことはほとんどなかった。
自分のなかで、もういない人になっていた元夫が突然現れた。
しかも病気で。
娘はすぐその上司に電話をして、主治医にも連絡して、翌日に病院に行く約束をした。
8月4日(木)
病院に行き、主治医から話を聞いた。
主治医が私と娘に「きょうは来ていただきありがとうございます」と、それはそれは深く頭を下げたことにびっくりした。
それ以前に主治医が私たちを見てびっくりしていた。まるでオバケを見たかのような。
ほんとに来てくれたのかという感じだったのだろうか。
とても丁寧に説明してくれ、元夫の病状がかなり厳しく週単位で危ないこと、万が一の時に引き取ってもらえるかを考えてほしいことを伝えられた。
それから18年ぶりに元夫に会った。
いや、すんなり会ったわけではない。
私はなんだか会いたくなくて、別の場所で待っていたのだ。
いくら病気でも、18年経っていても、離婚当時のわだかまりは急には消えない。
待っていたら、娘から電話があり、「パパが会いたいって言ってる」と。
じゃあしょうがない、会うか。
「久しぶり」と声をかけたら、元夫は「ありがとう」と言って、泣き笑いの顔になった。
それほど老けてはなく、変わっていなかった。
いや変わっていないわけはない、18年も経っているんだから。
だいぶ痩せているし弱弱しい。
聞いたら1週間何も食べてないって。
でも、なんだろう、この昨日まで会っていたような感じは。
18年間ほとんど思い出すこともなく、もういない人になっていたのに、一瞬で距離がなくなった。
躊躇していた自分が恥ずかしくなった。
命が尽きそうな元夫を目の前にしたら、それまでのわだかまりがどうでもよくなった。
できることをしたい。
そう思った。
でも今回は娘の気持ちが優先だ。
私はもう他人だけど、娘にとって父親はいつまでも父親だから。
娘がしたいようにするのが筋だ。
私の二言目は「住宅ローンちゃんと返したから」。
そうしたら、娘が「それ、さっき私が言ったよ」と。(笑)
この日、私と娘は、病院に行っただけなのに、主治医からありがとうございますと頭を下げられ、元夫からありがとうと泣かれた。
人生で、こんなに人から深く感謝された日はない。
元夫は実家とも疎遠なので、娘と相談して、亡くなった後は引き取ることに決めた。
この時点では、元夫の経済状況がわからなかったけど、ささやかな葬儀なら私がだせると思った。娘も出すと言った。
お墓はどうしよう。
元夫の実家のお墓は本人が嫌がりそうだし(実家には連絡しないでほしいと言われていた)、私の実家のお墓では居心地が悪いだろう。
その時、以前読んだ『いまどきの納骨堂 変わりゆく供養とお墓のカタチ/井上理津子著』に載っていた築地本願寺の合同墓を思い出した。
本を引っ張り出してきて探したら、最後の方に4ページほどの扱いで載っていた。
この小さな記事をよく覚えていたね私。
念のためネットで金額や、無宗教・戒名がなくてもよいのかを確認したら大丈夫だった。
娘に話したら、いいねと賛成してくれたので、お墓問題は解決。
これまで必死に働いてきて、少しだけど貯金があることを心底よかったと思った。
娘から、手紙をくれた上司に連絡をして、会ってきたこと、病状がかなり厳しいこと、万が一の時は引き取ることを伝えた。
上司は、8月3日にわざわざ家まで来てくれていたのだ。
私たちが留守だったから用意していた手紙をポストに入れて、不安な気持ちで連絡を待っていたそうだ。
会ったことをとてもとても喜んでくれ、病状の厳しさに泣いてくれ、引き取ることに安堵してくれ、やさしい親戚のおじさんのようだった。
さぞかし気が重かっただろうに、連絡役を引き受けてくれたどころか、元夫が3月に手術をした際は保証人にもなってくれていた。
なんて良い人なんだ。
ありがたくて涙がでる。
どんなにお礼を言ってもたりない。
この人がいなかったら、私は今、これを書く気持ちにはなっていなかった。
元夫のそばに、こんな良い人がいてくれたことに心から感謝した。
8月8日(月)
コロナ禍で、面会は土日祝日禁止、週に2回位、家族のみ、30分程度となっていた。
元夫の病状が思わしくないこともあり、この日からは毎日面会の許可がおりた。
この日、病室に行くなり、元夫は娘に通帳や暗証番号、今住んでいる家のことなどを引き継ぎはじめた。起き上がれないので寝たままで。
4日に会った時は、治る気満々にみえたのに、この急激な変化はなんだろう。
後から主治医に聞いたら「坂上さん、治療のために病院の近くに引っ越す予定で部屋を借りたんですが、新しい部屋に住むのは難しいかもしれないと伝えました」と。
だからか…。
自分の命が残り少ないと知るのはどういう気持ちなんだろう。
元夫が淡々と、時には笑顔で話していたから、私も娘も普通に接していた。むしろへらへらしていた。
元夫に聞いておかなければいけないことがあった。
借金はどうなったのか。
涙の再会はそれとして、一瞬で距離はなくなっても、一瞬で借金はなくならない。
借金が残っていても引き取る気持ちに変わりはないが、娘は相続放棄を考えなければならない。
私がそれを聞く役目になり、さていつ切り出そうかと思っていたら、
「今朝、看護師さんに院内のATMに連れていってもらって残金を全部返した。これで借金はないから」と振込用紙を見せてくれた。
息がはあはあして、車椅子に乗るのもやっとの状態なのに、この時はちょっとキリッとしてた。
「私が振込みしたのに」
「いや、自分でやらなきゃダメなんだよ」
そうだね、私がやっては意味がないね。
元夫は、離婚後再就職した会社で69歳の今も働いていた。
銀行員から警備員になり、いろいろ思うところがあっただろう。
借金を返しつつ、65歳からは年金を受給し、それを貯金して、口座にはそれなりの金額があった。
私が葬儀代やお墓代の心配をすることはなかったのだ。
娘は会ってあっという間に父と子になって、この日一緒に写真を撮り、帰りにはハイタッチもしていた。
私ななんだか写真に入ることができず、ハイタッチもできず、手を振ってみた。
3日目くらいからなんとなく入って一緒に写真を撮った。
撮っておいてよかった。
元夫から鍵を預かり、この日の帰りに元夫が今住んでいる家に行った。
かなり古い昭和初期の風情漂う二階建ての一軒家。
ぱっと見それほど悪くないけど、この家、水道が壊れていて水がでないのだ。
今の日本で水道が出ない生活をしている人がいるなんて信じられる?
離婚直後に借りた部屋を家賃滞納で追い出され、行き場がなかった時に、会社の会長の持ち物だったこの家を貸してもらったと言っていた。
このいきさつからも、元夫の性格からも、水道を工事してと言えなかったのは想像できる。
我慢強い性格だから、それなりに暮らせてしまったんだろう。
水が出ない部屋で大島優子が笑っていた。
大島優子が好きなのか。
好きだと思える芸能人がいて、その写真を飾る気持ちがあってよかった。
そして大量のDVD。
映画好きなのか。
前は全然観なかったよね。
この家を貸してもらえてなかったら、ホームレスになっていたかもしれない。
上司といい、会長といい、元夫は周りに恵まれている。
深く深く感謝した。
8月9日(火)
元夫に、家から持ってきた大島優子の写真を渡したら笑っていた。
娘は、大島優子の上に自分の写真を入れて、飾り直していた。
この日だったか次の日だったか、元夫がぽつりと、
「俺、お墓がないんだよな」と言った。
「大丈夫、探してあるよ」。
あまり具体的なことを言うのはどうなんだろうと思ったけど、できれば元夫の了解を得ておきたい。
「築地本願寺に合同墓というのがあるの。そこがいいかなと思ってるんだ」
元夫の顔がぱっと笑顔になった。
「本願寺か、いいね。歌舞伎座のそばだ。そうか。ありがとう。OK」
元夫は、歌舞伎座建替え工事の警備を長く担当していて、その話を何度もしていた。その仕事が誇りだったようだ。
思い入れがある場所の近くに眠ることができる。
偶然に感謝した。
その時に、「去年、警備会社から表彰されたんだよ。ベッドの上の引き出しに表彰状と記念品が入っている。
記念品は、何の役にもたたないボールペン」。
え、こんな面白いことが言える人だったの。
「ほんと記念品のボールペンって役にたたないよね」と娘が笑って返した。
その前だか後だか、娘が話している時に、割り込んで入り、自分の話をし始めたのにもびっくりした。
控えめで人の話に割り込むような人じゃなかった。
それだけ私たちに話したいことがあったんだろうと思ったけど、割り込んでまで話したのは、伊勢丹の向かいのビルで、打ち上げで食べたお鮨がものすごくおいしかったということ。
どうでもいい。(笑)
夜、「田中泰延×前田将多×上田豪「僕たちは、明日以降で本気だす」の配信を見た。
まるで今の私を見ているかのような言葉に励まされた。
「家族がそろってどっかに行くって夢のようなこと」(前田将多さん)
「自分が幸せじゃなければ誰かをケアできない」(田中泰延さん)
一度壊れた家族が、最後にまた一瞬集まる。
再生するのではなく、ただ集う。
ただ一緒の時間を過ごす。
8月10日(水)
私の誕生日だ。
18年ぶりに元夫におめでとうと言ってもらった。
元気になったら何かプレゼントを買ってと言ったら、それを聞いていた看護師さんが笑い、元夫も笑った。
こんなふうに元気に笑えたのはこの日までだった。
万が一の時はちゃんと私たちが引きとるから心配しないでと伝えたかったけど、さすがにそのままは言えず、どう言えばいいのかわからなかった。
せっかく借りた部屋を解約することになり、寂しそうにしていたから、
「よくなってもならなくても、うち来ればいいよ」
と言ってみたら、めっちゃうれしそうな顔になった。
自分が言った言葉で、誰かにこんなに喜んでもらえたことはない。
これで安心してくれたと思いたい。
コロナ禍で、病院は家族以外の面会ができなくて、これまで元夫を支えてくれた友達や会社の同僚や上司は面会ができず、ぽっと出てきた私たちだけが面会できるのがなんだか申し訳なかった。
みんなの代表でと思いはしたが、娘はいい、でも私が代表でいいのかと思う気持ちはぬぐえず。
それでも何かにとり憑かれたように病院に通った。
8月11日(木)~
日に日に具合が悪くなり、意思の疎通はできるけど、長くは話せず、痰がからんで苦しそうだった。
最後の3日間は、病室にいる間中、吸い飲みで水を含ませる→口をゆすぐ→吐き出すを繰り返していた。
それで面会時間の3時間が過ぎて、増えていくのは思い出ではなく口をぬぐったティッシュの山だった。
あまりにも苦しそうだから、
「先生に言って、眠らせてもらえば」と言ってみたら、
「いや、いい」と。
そして、8月15日(月)に元夫は旅立った。
いろいろ思うことはある。
今ここに書きたい後悔がいくつもいくつもある。
でも、元夫を思い出しもせずに過ごしてきた私に、過去を後悔する資格はない。
もしああだったら、こうだったらとは思わないと決めた。
その日その時できるだけのことをしたのだから、それで十分だと自分に言い聞かせた。
そして娘にも話した。
娘も私と同じ気持ちだったことにほっとした。
娘は「悲しいけど、できることはやったので、清々しい気持ちもあるね」と。
ああ、清々しいとはこういう気持ちなのか……。
それにしても、娘が転職しようと7月末で仕事を辞めていて、時間が自由になったのは神様の思し召としか思えない。
このために仕事を辞めたのだとさえ思えた。
娘は、急にこんなことになったのに、泣きながらも明るくやさしく強くいてくれて、私も頑張れた。
元夫を見送ることができたのは、娘のおかげだ。
娘に時間があり、私に心の余裕があり、元夫のそばに良い上司がいて、励ましてくれる友達がいて、主治医が家族に連絡するように強く勧めてくれ、それは元夫が看護師さんに18年会ってない娘がいて会いたいんだよと言い、それを聞いた看護師さんが主治医に話し、主治医は上の先生に相談し、と、それぞれの想いやタイミングが奇跡のように重なった「今」だった。
元夫を見守ってくれた人みんなに心から感謝した。
亡くなった後は、家に連れて帰り、友達や会社の上司、同僚、私の友達もきてくれて、お別れの時間を持てた。
遺影は、元夫の友達が、去年の12月に集まった時に撮った写真を送ってくれて、それを使わせてもらった。
とびきり笑顔のすごくカッコいい写真だ。
遺言通り、棺の中に、ビールも焼酎もウイスキーもかけてあげた。
頼まれていなかったけど、大島優子の写真も入れた。
戒名もお経もないささやかな葬儀をすませて、今、元夫のお骨がリビングにある。
ついこの間まで、どこで何をしているのかも知らず、思い出すこともなかった人のお骨が手元にある。
今まで、私と娘の間で、元夫のことはタブーというかほとんど会話に上らなかった。
忘れていたのもあったけど、きっと私が無意識のうちに話題にするなという雰囲気を出していたのだと思う。
それが今は、ごく普通に話題にでてくるようになった。
元夫は、最期の最期で、ちゃっかり家族に入り込んできた。
ずるいけど、しょうがない。
亡くなった後、元夫の家をじっくり片付けて、表彰状と何の役にも立たないボールペンを見つけ出した。
表彰状を棺に入れてあげていたら、あの世でちょっといい顔ができたかもしれない。
ただでさえ戒名がないので、ばかにされてはいないかと娘は心配している。
でも今は俗名だけのニュータイプが増えているに違いない。
ボールペンは何の役にもたたないどころか、トップ画像になって陽の目を浴びている。
まさかボールペンにこんな日がくるとは。
まさか元夫を見送る日がくるとは。
こんな最期でよかった?
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