見出し画像

夏の答え合わせ

 眠りから覚めて時間を確認する。スマホの通知欄に浮かんだその名前を見た瞬間、指先から力が抜けていくのがわかった。

 「なにしとん」だけの文面からは何の意図も読み取れない。攻撃的にも見えるし、ただのぶっきらぼうにも思える。
 なんで連絡してきたのか。いや、いつかは連絡してくることはわかっていたけれど、こんなに早いとは思いもしなかった。幻のようなほんの一瞬の絶頂ののち、わけもわからなくなるほど疲弊して傷つけあった私たちには、一年とか二年とか、もっと長い時間が必要だと思っていた。
 時間を置いて「勉強してた」とだけ返した。

 翌朝早く「今日の夕方空いとるん」と返信が来ていた。当日の予定を聞かれたらさすがに返さないわけにはいかない。
「空いてるけどどうしたん」
「そういうこと」
「どういうこと」
「ちょっとその辺行かね?みたいな?」
 笑った。この時点で悪意はなさそうだと判断できたので肯定の返事をした。
 こうして私たちは五ヶ月以上ぶりに顔を合わせて話をすることになった。

 その日の私の試験会場が彼の泊まっているマンスリーマンションに近いからという理由で、外で会わない選択をした私たちはばかだろうか。
 もちろん、部屋に来たというだけで性的同意もなしに襲うような人間ではないという一点では彼を信用していたがゆえの選択だ。性的接触であれ口論であれ、とにかく嫌な気分になったらすぐに帰ろうとは決めていた。

 彼のマンションの最寄り駅で落ち合う。久々に会う彼は見覚えのある黒いトレンチコートに身を包み、赤いチェックのブランドのリュックを背負って、腕を組んで不機嫌そうにも見える表情で壁にもたれかかっていた。
 どんなに衝撃的で心を揺さぶられる出来事が起こったとしても、季節が二つ移ろったくらいでは人は変わらないのかもしれない。彼の偉ぶった佇まいにそんなことを思い、半分警戒しながら声を掛ける。
 気まずさと驚きと安堵と笑顔の入り交じった微妙な表情で「おう、久しぶりやな」と白い整った横顔が右手をあげた。

 五ヶ月以上、いや、もっと長い期間、お互いを悪意の文脈で解釈し続けてきたわりには、警戒心が解けるまでにそう長い時間はかからなかった。
 部屋の窓からは東京の街並みが顔を覗かせる。白いレースカーテンをよけて、スカイツリーが見えると彼が指をさす。近づきすぎないよう気をつけながら、彼の肩越しに顔を出した。今は分かりにくいけど夜になると東京タワーも見えると言う。

 ベッドと椅子と机とテレビだけのワンルーム。さすがに椅子を選んだ。距離を確保するためでもある。その日の試験の手ごたえだとか、前日に会っていた友達との出来事を話すのをひたすら聞いていた。
 「それ取って」と言われて目の前の机の上にあったパソコンを手に取り、ベッドの端のほうに腰を下ろして壁に背中を預ける。
 画面を共有するために顔が近づく。肩が触れるくらいの距離に不思議と違和感も嫌悪感も感じられなかった。
 パソコンを戻してベッドに寝転がった彼とポツポツと自分たちの話をした。なぜ連絡してきたのか。夏になんで苦しくなったのか。「僕のどういうところがだめ?」と聞かれたので、性格が悪いし口が悪い、差別思想だと指摘した。
 もちろん、二人の関係が最悪だった時期のことにも触れた。臭いものには蓋をしたいものだけれど、その話題に触れることでむしろ信頼を取り戻していくようだった。

 夏と同じ感覚では決してないけれど、一度飛び込んだことのある腕の中に再度収まることはかなり容易い。
 細い二人がちょうど収まるシングルベッドの上で恋人繋ぎで手を握りながら少しずつ、夏の答え合わせをした。
 お互いをどう思っていたか。本当に好きだったのか。今どう思っているか。夏から今まで他の誰かと体を重ねたか。はじめての相手が本当に自分でよかったのか。それぞれがずっと気になっていたことを今度こそ本当の言葉で聞けた。

 髪を撫でて、夏そうしたように頭に顔を埋めると濃いシャンプーの匂いがした。相変わらず体臭がほとんどない。
 キスをせがむ彼の鼻に自分の鼻をくっつけて目を合わせ、どちらからともなく唇を重ねた。夏とは違う、何の感情も何のときめきもないキスは、夏のときと同じように何の味もしなかった。
 抱き合って足を絡めたままいつしか私たちは眠っていた。

 目が覚めると20時前だった。
 晩ごはんを食べるために外に出る。大きいリュックしか持ち合わせていなかったので、エレベーターの中で財布を兼ねた定期入れとスマホを彼のサコッシュに預けた。これもやはりあのチェックのブランドだ。
 肩を並べて人通りの多い東京の夜の繁華街を歩いた。手は繋がない。「何食べたい?」と聞かれてしばらく歩いたものの、どのお店も怪しく思えて結局一蘭を指名した。
 こうして彼と東京の街を歩けるとは思っていなかった。器用な彼はやはりするすると人混みを抜けていく。彼が隣にいる時は都会の雑踏の中でも比較的うまく歩けるような気がする。

 一蘭で隣の席につきラーメンが運ばれてくるとまもなく彼に友達から電話がかかってきた。彼が友達と話すのを聞きながらラーメンをすする。
 「飯食っとる。一蘭。誰もおらんよ。一人一人!」と電話の相手に答えているのを聞いてもみじめな気持ちにならないのは、きっともう彼に恋をしていないからだし、そういう関係でもないからだ。
 周りを巻きこんでボロボロになって別れた相手に連絡して会っているなんて知られるのはちょっとダサいと思う気持ちもわかる。私たちが再び会って同じベッドで眠ってキスを重ねたことは、およそ噂話に興じるクラスメイトの誰にも理解されないだろう。当事者にしかわからない文脈と信頼関係がそこにはあるのだ。

 父は出張で翌日の晩まで帰ってこない。彼の部屋に泊まるつもりだったから、帰りにコンビニに寄りたいと言った。結局コンビニには思うような商品がなく、彼の提案でドラッグストアに入った。クレンジングシートと歯ブラシを買って、店の外で待っている彼に「おまたせ」と声を掛ける。
 そこそこ待たせていたので不機嫌になっているかと思っていたのに、全然そんなことはなくて夏からの変化を見た気がした。
 こうして急なお泊まりのために必要なものをその場で調達するのは、大人になった気分がする。悪いことをするのは楽しい。

 部屋に戻ってスマホを返してもらうと、父からLINEが届いていた。予定が変更になって明日ではなく今晩帰ってくるらしい。同時に私たちのお泊まりの予定も無くなった。
 時間ギリギリまで、またベッドに寝転がって時折キスをしながら話をした。昔話だけではない。これからの二人の関係性のことも。
 いつの間にか眠っていた彼を起こして、「場所わかんないから駅まで送って?」と頼む。まだベッドに寝転がったまま惜しむように最後のキスをねだる彼に、ベッドの脇に膝をついて応えた。

 バレンタインの夜道はもう全然寒くなかった。眠たいながらも不機嫌にならずに送ってくれる彼に「優しくなったね」と伝え、改札のところでお礼を言って別れた。
 駅のホームでスマホが鳴る。「気をつけて」の一言がじんわりと嬉しい。

 彼に対して同じだけの気持ちを返すことは無理だと夏の時点で気づいていたから、今度はすでに諦めている。
 彼が私にまだ未練があることは会ってみてよくわかった。でもそれを押し付けることも好意を求めることもしないのは、彼自身がそれに何の意味も無いことをよく理解しているからだ。好きと本当の恋は違う。どれだけ相手に好意を求めても、それが本当の恋でないなら意味が無い。自分が誰かの本当の恋に応えられなかった分だけ、そして自分が本当の恋を知ってしまった分だけ、それを痛いくらいにわかってしまうのだろう。
 彼が時折切なげな顔をするのはきっとそういうことだ。それでも彼は私と一緒にいることを選んだ。

 だけど、また一緒にいられるようになって嬉しいのは私も同じだ。
 手放しで好きにはなれないけれど、夏から秋にかけて私が誰かのために時間を費やした一番は彼だ。
 人はその人にかけた手間暇の分だけ、その人をかけがえなく思う。それは『星の王子さま』の言葉を借りれば「絆を結ぶ」ということだ。他の十万の人間の誰でもない、この世でたった一人だけのその人でなければならなくなるということだ。
 私たちが傷つけあった過去をもってしてもお互いに離れがたいのは、きっとそういうことでもある。

 私が彼に抱く感情は「特別」が一番しっくりくる。恋でも愛でも友情でも憧れでも依存でも執着でも憎悪でもない。それらの要素を少量ずつ含んではいるかもしれないけれど、それらそのものが存在しているわけではない。
 彼を特別たらしめる要素もわからない。特定の要素で彼を特別だと感じているわけではないからだ。何か一つが違えばそれは彼ではない。たとえドッペルゲンガーが存在したとしても、時間を積み重ねてきた彼その人でなければ私には何の意味もない。
 彼の全てがただ、離れがたい「特別」だった。

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?