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好きに至る恋

 会うと必ず「おれのこと好き?」と訊くそれは、彼の弱さの表れでもあるのだろう。誰かに好かれていないと不安なのか、より多くの人から求められていると実感したいのか。
 「好き」と返さないと拗ねるのでそう言うと、今度は「どういう好き?友達としての好き?恋愛の好き?」と続く。去年の夏の私は彼に同じことを訊いていたけれど、今の私に言わせれば好きは好きでしかない。
 求められるままにそれなりの言葉を渡してきたが、それが本心じゃないことぐらいお見通しのはずだ。

 私の彼に対する感情はいうならば「好きってことを忘れるくらいの好き」だ。これは坂元裕二脚本のドラマ『カルテット』内のセリフの引用だけど、作中の「エスカレーターの下りに乗るときとか、白い服でナポリタンを食べるときとか、そういうちょっと頑張るときってあるじゃない。そういうときにね、その人がね、ちょっといるの」とは違う意味だ。
 彼についてはもう、好きとか嫌いとか、そういう段階ではないのだと思う。もちろん何か嫌なことをされて、純度100%の嫌いになる可能性は全然残されている。それはまた別の話。
 この一年、好きも嫌いも怯えも感心も、彼に動かされてきた多種多様な感情がある。話題を探さなくても勝手に喋っていてくれるところは楽だ。穏やかな気分で隣にいれば落ち着く一方で、その荒い言葉遣いを浴びすぎると疲れてしまう部分もある。
 そのあたりの機微とか変化とか全部含めての好き。好きという直接的な感情じゃなくても、好きがそこにある。好きでいることが当たり前で、カテゴライズできない唯一無二の形をした固有の「好き」。そういう意味での「好きってことを忘れるくらい、いつも好き」だ。 

 この「好き」に辿りつくまでの1年間を振り返ると、私と彼は一緒にいた期間の方が実は短い。
 去年の7月の頭にLINEを交換して、同月末には不仲になっており、その後長い冷戦状態を経て2月半ばに再会した。それも3回ほど会っただけで、2月の終わりにはLINEをブロックされている(はず)なのだ。そして年度が変わって5月。今のところは週一で会うことになっているが、これもいつまで続くだろうか。

 恐らく、飽き性の私がなんだかんだ1年も同じ人間に心を動かされ続けているのは、この関係の不安定性と物語性ゆえだろう。不安定だからこそ安定しているなんて逆説的だろうが、そこに文脈が加わることでドラマチックになって飽きずに済んでいるのだ。
 もちろんそれとは別のドロドロした理由もある。良好だった関係を急に切られたことによるパニックだ。突然の別れは大きな禍根と「なぜ?」「何がダメだったの?」という答えの出ない疑問を残す。下手したら一生その思いを消せずに終わったり、その後の人生を狂わせてしまったりすることもある。上手く別れなければ、別れを切り出す方も切り出される方も長く苦しむことになる。実際、先述の冷戦期間は突然の別れの苦しみに囚われていた部分が大きい。

 ひと夏の恋を終えて、前後不覚になるような8月9月。トラブルに巻き込まれてそれなりに楽しんだ晩秋。代わりを求めて影を追っていた冬。恋はじっくりと、目まぐるしく形を変えていく。そのせわしなさといったら。
 恋に至る好きがあるなら、好きに至る恋があってもいいだろう。この世にあるのは恋に至る好意ばかりではない。
 この好意はもう恋になることはないだろう。来た道を戻ることはできない。人生は不可逆だからこそ美しく輝く。

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