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しゅごキャラはもう見えないけれど

 『しゅごキャラ!』という少女漫画を知っているだろうか。2006年から2010年にかけて『なかよし』で連載されていたが、私がその漫画を知ったのは2011年。小学5年生のときだった。
 母に頼み込んで、単行本の漫画を全巻揃えてもらったことを今でも覚えている。人生で初めて全巻買いした漫画だ。

 「しゅごキャラ」はなりたい自分が小人のような形になった存在。大きさは手のひらほどで二頭身。子供の肩にちょこんと乗っかるようなサイズだ。子供の頃は見えているけれど、大人になったら消えてしまう。
 物心ついたときから独り言が多かった私にとって、しゅごキャラは正にぼんやりと自分の中にあったイメージを具現化したものだった。自分のしゅごキャラを想像して絵に描いたり、登下校のときに自分のしゅごキャラとお喋りをしたりした。

 小学校を卒業して、中学に上がり、高校、予備校へと進んでからも度々しゅごキャラの存在を思い出していた。イメージを日常の中に登場させる子供の空想遊びのようなことを、私は割と長く、下手をすると今でもやっている。
 退屈な授業中に机の上に目をやると電子辞書の上でくつろいでいる。一人の登下校では肩に乗った彼らと空想の中でお喋りをする。トイレの個室の中で私の周りを飛び回る。自転車のかごに乗せたカバンにちょこんと座って風を浴びている。
 存在しない、見えない存在がまるでいるように感じる。私の声を受け止めてくれる彼らをいないと言ってしまうのは、なんとなく違う気がする。

 19歳。誰かになろうとすることを諦めた。私は常に誰かをコピーしてトレースして生きている。だけど完全に誰かをコピーすることなどできない。できるのはせいぜい、一部を要素として取り込むくらいのことだ。
 まして、自分と真逆の性質を持つ誰かになるだなんて。遠すぎる憧れに少しずつ精神が蝕まれていった。憧れに近づけない自分が嫌いになりそうで、でも輝きはいつも変わらずそこにあって。もとの自分を消して新しい誰かを自分にするなんて、まるで全身の内臓を移植するようなもの。拒絶反応が出るのも当然だ。
 移植手術は失敗した。20歳を過ぎた私の心の中になりたい自分はもういないのかもしれない。でも私は今も誰かと会話をしている。それは一体誰なんだろう。

 「私」を構成しているのは私一人ではない。呼吸が吸って吐いてを交互にくりかえすように、真面目に努力したくなったり、怠惰に生きたくなったりする。好戦的になったり、ささやかな日常を愛したり。丁寧な暮らしをしたがったり、退廃的な生活に憧れたり。
 「私」はいとも簡単に入れ替わる。何が今の「私」を構成しているのか自分でもわからなくなる。状況の変化と共に「私」は入れ替わり立ち替わり、刻一刻と変化していく。たとえば3週間前の「私」はどのくらい、今の「私」とは違っているのだろう。

 『しゅごキャラ!』のなりたい自分は、必ずしも将来の夢とリンクしたものとは限らない。むしろ「どうありたいか」に近い。チアリーダー、王様、猫、天使、悪魔、赤ちゃん、ピエロ、スポーツ選手、侍というラインナップもそれを物語っている。
 どうありたいか。それは過去から続く今の延長線上にある未来だ。多面的な私のまま、自分を放棄せず消費せず切り捨てず、私を私として生きることだ。

 今も昔も、私にはしゅごキャラは見えない。見えないけれど、たくさんのしゅごキャラが変わらずそこにいて、交互に私になる。忘れて消えていったしゅごキャラもいる。これから新しく生まれるしゅごキャラもいる。私が私を愛するように、彼らも私を愛している。ような気がする。

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