見出し画像

子供のためのオルセー美術館(8)ゴッホ・人がいっぱいすぎ!そっちに行けないよ

小さいお子様向け ランプの数を数えます。

ここは 
どこかわかる?

こんざつ こんざつ

ダンスホールにたんだ

おしゃれして
あたまに ながいリボンの人

かみの


みんな
もくもく ふわふわ
だって ぼくは
日本の大好だいすきだから

いいなあ この あたま

ね にてるでしょ

あ、ルーランおばさんが こっちてる

うごけなくてこまっているの?

ひとがいっぱいでそっちまで いけないよー


さあ、もんだい

あかりは いくつ?

ダンスホールのあかりは いくつあるかな



こたえ


11こ
つけられたかな?



Vincent Van Gogh (1853 - 1890)
アルルのダンスホール La Salle de danse à Arles

この絵は、リセ大通りにある社交場「フォリー・アルレジエンヌ」での祝祭の夜を描いたと思われる。ゴーギャンからの影響は明らかである。日本美術からの影響も、水平線の極端な盛り上がりや、髪型の曲線、それに逆らうさまざまな曲線に支配された装飾的な前景から感じ取れる。

musée d’orsay

あふれんばかりの人々、統一のない好き勝手な服装、それらが密接に絡み合うことで、動きも取れないダンスホールの喧騒の様子が見事に表現されている。右のルーラン夫人の顔は、唯一視線を鑑賞者に向けて閉塞的なホールの中でひとりきりでいる不安や、人に押しつぶされそうな混雑の恐怖心を表現しているようにさえ見える。(ゴーギャンの『アルレジエンヌ』でも同様に2人の女性像が不安や苦悩を表現している)
1888年10月23日、ポール・ゴーギャンはアルルでフィンセント・ファン・ゴッホと合流した。二人は南仏に「南のアトリエ」を一緒に作ることを夢見ていた。しかし、その熱意はすぐに冷めてしまった。ファン・ゴッホの強烈な存在感が、ゴーギャンの激しい独立心と衝突したのだ。しかし、12月中旬になると、二人の関係は一時的に小康状態になり、共同制作を再開する。
この数日間の共同作業の再開の間に制作された2つの大作が、ゴーギャンの《アルジェリエンヌ(ミストラル)》(シカゴ、アート・インスティテュート)と、ゴッホの《アルルのダンスホール》である。
ふたりは、これまでの潜在的な不安から逃れるために、12月16日か17日にモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。そのあとのディスカッションで、二人の美意識の違いがこれまで以上に浮き彫りになり、別れは避けられず、ゴーギャンは帰り支度をした。

musée d’orsay

同時期に描かれたゴーギャンのアルジェリエンヌ

Paul Gauguin Arlésiennes (Mistral)

ポール・ゴーギャンが、フィンセント・ファン・ゴッホとアルルを訪れた短期間の激動の間に完成させた17枚のキャンバスのうちの1枚
この力強く謎めいた絵は、ゴッホの邸宅「黄色い家」の真向かいにある公共の庭を描いたものである。ゴッホが同じ場面を描いた《黄色い家》(国立エルミタージュ美術館)に見られる自発性とは対照的な、計画された周到な構図、大きく平坦な色彩、恣意的な空間の扱い、謎めいたシルエットなど、この絵のすべてが、ゴーギャンが絵画的な調和と象徴的な内容を作品に求めていることの表れである。
ここでは、ショールに包まれた4人の女性がゆっくりと庭を散歩している。鑑賞者に最も近い2人は視線をそらし、不安そうに口を覆っている。彼女たちの物憂げな輪郭は、霜に包まれた低木を表す2つのオレンジ色の円錐と呼応し左上の小道沿いのベンチは、論理的な遠近法を無視して急な上り坂になっている。ゴーギャンは意識的に目や鼻を思わせる形を植え込みに入れ、奇妙な監視者がいるような印象を与えている。抑圧された感情のオーラととらえどころのない意味を持つ《Arlésiennes(Mistral)》は、ゴーギャンが外見の根底にあると信じていた曖昧さ、謎、感情を探求している。

The Art Institute of Chicago

喜多川歌麿『松葉屋内粧ひ』
寛政年間 1789~1801国立国会図書館

お読みいただきありがとうございました。
この日のために着飾って集まったたくさんの町の人たち、田舎の町の小さな楽しみはこんなフェットでした。ルノワールのパリのダンスホールとは雰囲気が違いますね。
ぽったりした黄色のあかり、すこしの朱色。ゴッホお得意の濃いブルーのリボンが効いています。
ゴッホもここでダンスしたのかな?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?