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元始、女性は太陽であった

「格差」という事柄に最近考えることが多かったです。
今の時代における「格差」とは色々なところで使われるし、「格差」があらゆるところで断層的に生まれた今、さらにコミュニケーションが複雑化した時同じ言語の話をしている日本人同士でもまったくお互いが理解できない状況になることがあるのではないでしょうか。
 1930年代シカゴ派のルイスワースはアーバニズムでアーバンパーソナリティの定義を定めていたがIT革命後の私たちは、都市と田舎という対立軸の中に生きている時代ではなくなってきています。それを「多様化」という言葉で表すことに対して私は非常に抵抗を感じます。「多様化」と言われるものが何なのかと考えると「個性」と「種」という言葉が逆に浮かんでくるが、「自者」と「他者」そしてその「異なる事」と「共通点」「多様」という言葉は「同一グループ」をどこまでの範囲を同じとみなすかとも言い換えられます。「格差」社会という言葉は今では使い古されてしまっているが、価値観の多様性とは逆に価値観を共有する同一グループがどのようなものかという判断を「自分」「己」「自者」で多くしなければならない選択を繰り返す時代になったと言う事であります。そのためにはゆるぎない確固とした「自己」が確立している必要性が出てくるが、今の日本は欧米と違い根本的に「自己」を確立する教育がされていません。
 「承認要求」と「相対的」に自分を見る、つまり「他者」と「自分」の距離感、「存在」の在り方、そして相互理解が言語というコミュニケーションに頼よることが多かったが今、感性を高めることを行う人が多いのはこの「多様化」がされた時代でもっと別のコミュニケーションを模索して、新たな同一グループに所属することで人生をより豊かにしようとすることを、言語という事柄に依存して食傷気味であった人達が、行おうとしているように見えます。スタンフォード大学で今取り入れられているアートシンキングやデザインシンキングという手法はその一つにも思えます。
 それが「単一」の「同一グループ」に所属していて安心感を得ていた人達にとっては逆に理解に苦しむところがあるのかもしれません。IT化とは色々な形で多種ある共同体に触れる機会を増やしてくれる便利なものであるが、それが「個性」と「種」、また「共通点」と「相互理解」「自分の好み」「感性」を理解していないと「混乱」を招く要因となります。
 しかしながら、多くの機会に触れていてさらに豊かな人生を送れるはずなのに思考停止しているような膠着している社会になっているように見えるのはなぜでしょうか。
 そこで思い出したのは明治という封建制に近い文化からさらに民権運動など新たなうねりが起こった時代であります。平塚らいてうが女性自由運動として「青鞜」という雑誌を創刊したとき、「元始、女性は太陽であった」との一文の書き出しから始まっていました。明治の封建制から新たな試みや「市民」としての自立に目覚たうねりの中で、女性の画一的な考え方から解き放とうとする言葉の一つであったが、今私が触れている女性たちの考えがその言葉と程遠くいまだに「月」であるという事実を体験することが多くあり、非常に残念に思います。

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