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宝島への数マイル 【吹奏楽小説】

 河原を走る自転車の車輪に、夏草の匂いが絡まる。
 日焼け止めを念入りに塗ったはずの腕が、太陽に晒されじりじり焦げてしまうのではないかという痛さ。

 午前中までのバイトを終えてから、柚希(ユズキ)は大学の奏楽室へ直行した。

 クラリネットやフルートが音階練習をしている音が最初に耳に届く。やがて、バスーン、オーボエの曲練習の音色。ホルン、トランペットはロングトーン。
 音がどんどん重なり、二階のホールからティンパニが轟いたところで、柚希は自分のパートのドアを開けた。

 すでに真琴と先輩二人はホールへ移動したようだ。空の楽器ケースが壁際に寄せてある。

 急いで楽器を組み立て、柚希はマウスピースでバジングをし、本体に差し込んだ。
 チューニングのあと、メトロノームをかけてロングトーンからはじめる。
 合奏まで時間がない。
 音がなかなか楽器を抜けてくれない。どんなに息を送り込んでも、浮わついた音しか出なかった。
 柚希はまどろっこしく感じ、楽器を抱え外へ出ると、思い切り大きな音で裏山の木々に向かい吹き鳴らした。
 驚いたカラスが柚希へ「アホウ!」と抗議の声を浴びせる。声楽科教室の窓も聞こえよがしにピシャリと閉められた。
 スライドを指にかけ、柚希はそそくさと奏楽室へ戻った。

 柚希がトロンボーンから遠ざかって、およそ6年の月日が経っていた。
 中学一年のときはじめた吹奏楽部では、夏休みが終わるのを待たず、早くも退部届を出した。

 それもくだらない理由だった。
 親友の好きなトロンボーンの先輩と柚希が必要以上に仲が良いと嫉妬され、言いがかりをつけられた翌日には彼女は部活中に味方を作り、柚希を集団で排除しにかかった。
 同じパートなのだから、先輩と会話したり教わったりは当然のこと。しかし、おそろいのマスコットを楽器ケースに付けていたのを目にしたとき、親友の態度は一変した。それは、もうひとりの女の先輩が、パートのみんなに買ってきたお土産だったのだが、他の子達は楽器ケース以外のところに付けていた。

 誤解だと説明するも、親友の暴走は止まらず、彼女に加担したうちの誰かしらが、毎日柚希に嫌がらせをしてきた。
 楽譜は切り刻まれ、楽器置場にはわざと掃除用具が積まれて、しまえないようにされていた。

 唯一の安心できる時間は合奏のとき。顧問の目の届くところにみんなが収まるので、手出しはできない。
 そのときは地元のしょうぶ園の花祭りで演奏する『宝島』を練習していた。

 『宝島』は、入部前の勧誘、部活紹介で演奏された曲だった。キラキラと華やかな音に魅了された柚希は、この曲がきっかけで入部を決めた。
 それを今度は自分が演奏できるとあって、いつも以上に練習に励み、披露する日を待ちわびていたのだ。

 だが当日、何者かによって柚希のトロンボーンは隠された。

 慌ただしくトラックに楽器が搬入され、観光バスに全員が乗り込み、点呼が行われた。
 柚希は楽器がないことを部長や顧問に訴えたが、出発を遅らせることはできない。二人に宥められ、前の座席に乗せられた。
 吹奏楽部は大所帯だ。ひとり減ったところで、演奏に支障はなかった。

 花祭り会場には、柚希の家族も観に来ていた。しかし特設ステージの上に柚希の姿はない。パーカッションの設置を手伝うと、彼女はそのまま舞台袖に消えた。

 ライトの当たらぬステージの下。みんなの音が全身に響く。このリズムに心踊らぬ人などいないだろう。
 こんな惨めな境遇で聴く『宝島』でも、指先と爪先は、リズムを刻み、小さな声はみんなの音にかき消されたが、自分のパートを歌っていた。

 ああ、やっぱりこの曲が好きだ。
 嫌なことばかりなのに、私はハッピーだ!なんて思えてしまう。
 
 キラキラの音楽を浴びながら、柚希の心は『宝島』が流れている間、涙が出るほど幸福だった。


 高校時代、吹奏楽部はあったが、柚希はどの部活にも入らず帰宅部を通した。そして、大学入学を期に再び吹奏楽の門を叩いた。



 同じトロンボーンパートの真琴が、柚希を呼びに来た。急いで楽器と楽譜、譜面台を持ち、合奏練習のホールへ向かう。

 明日は、サマーコンサート。町にある劇場のホールを借り、大学のブラスバンド単独で演奏会をするのだ。

 ラテンナンバーを中心に組まれたプログラムで、サマーコンサートは幕を開けた。


 しっとりと『イパネマの娘』から始まり、メロウな調べの『オエ・コモ・バ』。フルートが軽やかにメロディを語る『ワンノートサンバ』にラテンの風を吹かせる『コパカバーナ』。
 甲子園でお馴染みの『エル・クンバンチェロ』で会場の熱気は最高潮に達し、吹奏楽の演奏会では珍しく、客席から指笛が鳴った。


 時折、頭の中が真っ白になりそうだった。俯瞰で自分の演奏を聴いているような感覚にも襲われた。
 その時は刻一刻と近づいていった。

 中学一年の柚希が、ステージ下で目に涙を溜めて歌ったあの『宝島』を、今度は楽器を通して奏でられる。
 金管、木管、弦にパーカッション…みんなの音が重なり合ったときの高揚感と幸福感は、何ものにも代えがたい。

 アゴゴベルが静寂の中を突き抜けて、パーカッションは賑やかに祭囃子のように鳴る。
 サックスが楽団を連れてくる。もう奏でたくてウズウズしていた楽器達が一斉に音楽を解き放った。

 
 『宝島』だ。


 人生はいいことばかりではない。人々に流れる時間は平等なのかも、もはやわからない。
 しかし、この音楽が鳴っている間は、誰しも笑顔になり、体がひとりでにリズムを刻む。
 『宝島』という楽曲に力を宿して、この会場をハッピーな色で包みたい。

 サックスのソロが金管パートにバトンを渡す。
 柚希達は椅子から立ち、吹きながら会場を見た。

 ドラムスやストリングスの面々はプロのエキストラが駆けつけていた。彼らのファンである観客はノリ方を心得ていて、すでに座席から腰を浮かせている。
 そんな彼らに勇気を得て、少しずつ他の観客も立ち上がり手拍子を始めた。

 柚希は過去のトラウマさえ、この曲が流れている間なら顔を上げて思い起こすことができる。
 たとえツラい思い出とリンクしていても、音楽を嫌いになることなどない。
 音楽は傷を癒し、底から救い、人生って思いもよらない瞬間、楽しくなるんだよ、と教えてくれた。
 柚希がそうであったように。


 最後の一音が鳴り終わり、あたりには熱気と余韻が静寂とともに留まっていた。
 次の瞬間、大歓声と惜しみない拍手が、地響きとなってステージ上のバンドに贈られた。

 終わった。
 夢の時間が、昔の自分を置いてゆくことなく、ちゃんと終わった。



 『宝島』の余韻に頭が麻痺していた柚希は、楽屋でトロンボーンを片づけた後、誰もいない階段に座り、ワッと泣いた。
 あの日こらえた涙が、今になって一気に押し寄せた。





最後まで読んでいただきありがとうございました。
あなたの心にも大切な音楽が流れていますように🍀


※吹奏楽用語でわかりにくい表現がありましたので、投稿後、下書に戻して加筆しました。

※また、『宝島』の動画を貼りたかったのですが出来ずに断念。YouTubeの「オールスター吹奏楽団 ー『宝島』」では、『宝島』の編曲者である真島俊夫さんが指揮しておられます。プロの精鋭達が本当に楽しそうに演奏しているところも好きです。(個人的に)

【吹奏楽用語】

[マウスピース] 金管楽器などの本体につなぎ、音を鳴らすための部品。直接口を付けて息を吹き込むためのもの。

[バジング] 金管楽器における練習法。マウスピースに口を付け、又はマウスピースは使わず、唇を振動させて音階を鳴らす奏法。

[ロングトーン] ひとつの音を吐く息を一定にし、長く伸ばして吹く練習法や奏法。

[スライド] トロンボーンを形成する特徴的な部品で、演奏時にここを引き・伸ばしして音階をつくる。



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