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リカルド ~月~ 第8話【物語】


 私は祖父母に引き取られたとき、姓も変えられた。
 父ルイスの姓、ハミルトンから、コールマン姓を名乗ることになったのだ。
 幼い頃のことだったので、自分の本名がリカルド・ハミルトンだったというのも当時は覚えていなかった。

 何度かお屋敷にハミルトンを訪ねてくる者達がいた。今思うと、あれは新聞記者だったのだろう。祖父はきっぱり取材を断ったが、しつこく口説こうとしてくる輩には犬をけしかけて追い払うこともあった。

 私の両親や学会に出席していた乗船客達がクルーズ船とともに跡形もなく消えた事件。捜索は難航し、手がかりさえ掴めぬまま、年月だけが流れていった。
 そして未だに人々の噂や興味本位の説は、どれも想像の域を出ない。新聞の日曜版でオカルトめいた事件の特集記事を見つけると、祖父はひどく気分を害していた。

🌛


 私は父ルイスの天体望遠鏡を窓際に設置し、月に鏡筒を向けてファインダーを覗いた。6年前、リックがハミルトンの家から私のために持ち出してくれたものだ。

 ひんやりと夜風が頬をかすめる。
 こうして望遠鏡越しの月を眺めているとき、私は宇宙を歩いているような錯覚に陥る。

 案外、月は丘の上のヒマラヤ杉と同じくらい近くにあって、父ルイスと母エマも振り向けばそこにいるのかもしれない。
 そんな考えが浮かび、私はふと接眼レンズから目を離した。
 幻でもいい。二人に会いたい。
 そう祈りながら、私は幻影を逃がさぬように素早く後ろを振り返った。

「リオ…!」

 背後にはいつもの部屋がいつものようにあるだけで、両親の姿はなかった。しかし、私ははっきりとその声を聞いた。
 窓の外からだ。若い女性の声…母さん?

「あなた、リオでしょう?」

 天体望遠鏡と窓枠の隙間から目を覗かせ、私は声の主を探した。窓の外を見下ろすと、モダンな帽子を被った女の人が、私に手招きしている。
 彼女は月明かりだけでもそうとわかるプラチナブロンドの髪だった。母ではないと落胆し、見知らぬ人がなぜ自分の名前を知っているのかという不思議さに困惑した。

「どうか、怖がらないで。怪しい者ではないの。私、あなたのご両親の知り合いです」

 ならば、どうして正面玄関ではなくこんな庭の生け垣から現れたのだろう?もしかして、彼女も新聞記者なのでは?と私は疑った。

「リオ、少しお話しできないかしら?お屋敷を脱け出せる?」
「どういう…あなたは僕の両親とはどういうお知り合いですか?」

 胸の内側からドンドンと拳で叩かれているようだ。知りたい気持ちと危険かもしれないという警戒心で手が汗ばんでくる。

「憶えているはずないわね、あなたはまだ小さかったもの。私はルイス・ハミルトン教授の教え子です。リッジフォード大学の」

「父さんの?」

 一度だけ、私は父の大学の教え子達とともに夏合宿へ連れていってもらったことがあった。母も同行したので、まるで家族旅行に来たような楽しいひとときであったのを憶えている。

「お願い。少しでいいの。こちらへ下りて来られる?」

 私は天体望遠鏡を引っ込めると、窓を閉めた。そして足音を立てぬよう注意深く階段を下り、厨房で片付けをしている祖母の後ろをすり抜け、運良く開け放たれていた勝手口から外へと出た。

🌜️

 彼女は、先ほどと同じ場所で私を待っていた。
 ヒール靴には、牧草の混じった土がべったりと張りついており、足元の悪いルートをわざわざ通って来たことがうかがえる。

「あなたは、リオで間違いないわね?ハミルトン教授の息子さんの」

 斜に被った帽子の下から、ブルーの瞳がこちらをじっと見据えている。カールした肩までの短い髪は彼女の利発さを物語っていたが、今は頬を硬直させ、身じろぎひとつしていない。

「父はルイス・ハミルトンですが、僕の名前はリカルド・コールマンです」

「…コールマン?…リカルド…」

「祖父と暮らしているので」

 すると、彼女はハッと何かに思い当たった顔になり、静かに頷いた。

「まだ名乗っていなかったわね。私はオリビア・グレイよ。ハミルトン教授の研究室で植物学を学んでいたの」

 私も慎重に頷き、次の言葉を待った。

「手を」
「?」
「手を出して」

 何を言い出すのだ?と戸惑っている私の手を、ミス・グレイは強引に取って、冷たい指でぎゅっと掴んだ。

「やめて!」
 驚いて咄嗟に腕を引く。

「ごめんなさい!私、驚かせてしまって」

 彼女の目的がわからず、いよいよ私は怖くなり後ずさった。

「待って!お願い!」
「両親の事件のことは知りません。僕は何も答えられない」
「そうよね、あなたはまだほんの小さな子どもだった。ねえ、あなたはリオと呼ばれていたわね?」
 黙って頷く。
「そして確かに、ルイス・ハミルトン教授とエマ奥様の息子さんなのよね?」
「僕の父はルイス、母はエマで間違いありません」
「そう、そうなのね」

 風が吹き、細くたなびく雲が月の一部を隠した。

「だったら、あのお墓には一体誰が入っているの?」

 ミス・グレイのかすれた声。あの言葉は、私に訊ねていたのか、それとも独り言だったのか?

 湿った土の匂いとローズマリーの香りが混じり合う。緊張のあまりひきつって大きく息を吸うと、もやのかかっていた私の頭の中は、嫌でも明晰になっていった。



🌜️ to be continued… 🌛
 

 



 



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