終わりで始まり
知らない天井 体に刺さる管の数々 拘束された腕
これはよくできた夢だなと思った。
すぐに医師が駆けつけた。今日の日付が分かるかと。5月1日とかですかねと適当に答えたところ5月7日だったようだ。
だが、それでも私は現実だとは信じなかった。病室にカレンダーが貼ってあったのを見て、これは夢だと確信していた。
だって、こんなに整然とした並びのカレンダーがあるとは思わなかったから。まあ、翌年の1月のカレンダーもこんな感じだったんですけどね。ただ、状況を理解してない私には違和感でしかなかった。
おっリスカ跡も完璧に再現されとるな〜夢っちゅうのはそこまできたんやなぁなどと考えいた。今となっては馬鹿馬鹿しい。
色々管抜いちゃうし頭と腹の抜糸もしちゃうね〜と言われなんのこっちゃわからないがとりあえず従う。頭だろうと抜糸って痛くないんだなって。
さて、ここからが面倒だった。上記で答えた日付がほぼ合っていたせいで記憶も鮮明だと思われてしまったのだ。何故病院にいるのかもわからないしまだ本気で夢だと信じていた。とりあえず周りに合わせ、病棟のルールに従って動くことに。
病院での生活は8時朝食・12時昼食・18時夕食+毎食ごとに歯磨きが基本だった。白米を大盛りにできることを後に知ったりも。それと、15時はおやつの時間。看護師に欲しいものを伝えて売店で買ってきてもらうと言ったような感じ。看護師によってはおやつの量に厳しかったりもした。
閉鎖病棟だったのでスマートフォンは使えなかった。消灯は21時なのだがすることがまるでない。1人での歩行を許可されていなかったので暇つぶしにテレビや塗り絵などのあるホールに行くこともしなかった。同じ部屋の人が呪術廻戦とSPY×FAMILYあるけど読む?と言われたが人見知りなのであっあっ、だ、大丈夫です……となるなども。
そしてシャワーは週3程度しか浴びられなかった。湯船には入れず後ろで看護師に立って見られながらの洗髪洗体。足の痛みが相当強く、着替える時も座らないと下半身の服が着れなかった。退院までにどこまで良くなるかと思う日々。
リハビリは週に3回ほどあった。いつもお昼くらいに療法士がやってきて、一緒に足の運動を。日に日に廊下を歩ける距離も増えていった。
だが、いつだっただろうか。私は真剣に語った。
「私だけが知ってるんですけどね、全部夢なんですよ、この世界」
それをきっかけに主治医からあなた飛び降りたのよと説明を受け、うわ〜これが現実なのかよ〜と心底思った覚えがある。
当時はコロナ禍にあったので、面会は月に数回5〜10分ほどだけ。
最後の手術から意識が戻ってから最初の面会で告げられたのは離婚したいこと。まあそれが普通の反応なのだろう。当時は嫌だ○○くんがいないと生きていけないのなどとヒスっていたが、ある日突然興味を失い離婚に同意。
ちなみに飛び降りの連絡が来た時に真っ先に思ったことは"とうとう来たか この時が"らしい。失礼な。
基本的な生活は上記のような感じで基本それらの繰り返し。暇を極めすぎて一週間の献立が張り出されているのを暗記するのを目標にしていた。夏が来て冷やし中華が現れた時は胸熱だったね。
それと、やっぱり窓は10センチくらいしか開かないようになっていた。自殺防止なのはわかる。でも、高さを調節できるベッドがあった。結構な高さになるし、角度もつけられる。寝巻きやタオルは自己管理になっているから、首吊り考える人いるんじゃないかなあなどと。
5月に目を覚まして8月頃、退院の話がやってきた。新大阪駅までの送りのため、元旦那の休みの日で調整するとのこと。ようやく外に出られるのかとワクワクしていた。
シャワー看護師付き添い時使用可のカミソリを元旦那が買ってくれず無駄毛がアホみたいに生えていたのが悔しかったので、絶対タイツを持ってこいと念を押しておいた。これでも女なんだ。
そして退院当日、元旦那が迎えにきて私服を渡される。着替えて看護師や主治医に見送られながら病棟を後にした。
そこからは適当に入ったラブホで無駄毛処理をして、最低限の化粧をして再出発。ラブホのカミソリが無能すぎて泣けたよ。
実際に外を歩いて見てわかったのは、階段の下りがかなり辛いこと。
一応腹を満たしてから新幹線に乗るかということで百貨店を練り歩くがもう辛いのなんの。実際杖くらいは必要なレベルではあるらしいとのこと。
まあ、そんなこんなで適当に腹を満たし、東京駅へ。
新幹線の切符を買って、やっと帰るのかと実感した私がいた。
新大阪までの2時間半
元旦那は私の隣のいないようにしていた。
そんな中私は、これまでのことをずっと噛み締めていた。
今まで通りに動かない足、思うように曲がらない背中、物理的にもいかれちゃった頭、何か大切なものを失って、新しい希望はきっと得たんだろうけど。
それでも、車窓からの景色は滲んで見えた。
感傷に浸っているうちにもう新大阪駅。JRの乗り換え口に母親がいた。
やっと退院できたね、生きててよかったねって、大嫌いだったはずなのに、そう言ってくれる人がいることが嬉しくて。
2人で美味しいラーメン屋さんに寄ったりして。帰り道、足の痛みが限界な私のためにタクシーを拾ってくれたりもして。
なんかふと、またやっていけるかも、って。
この話はここでおしまい。離婚届出すのが後々になってしまった話などはあるがそれを記事にするかはまあ、気分といったところ。今の体の調子とかはまた書くかも?質問があれば気兼ねなく〜
病気は治ってなくても、生きてます、私!
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