見出し画像

俺は死なん、100まで生きる

人間は、死と直面した時、3つ悲しみの内、どれか1つと直面する。
愛するものを失う悲しみ。
愛するものに与える悲しみ。
愛しあうのものがいない悲しみ。

とても有名な哲学者が残した言葉のように聞こえるが、僕が今考えた言葉だ。

今日、いとこのお葬式だった。
まだ20代前半の青年、アラトゥエだ。

時は1週間前に遡る。
家でいつものようにテレワークという名の給料泥棒をしている昼下がり。
僕の母が誰かと電話をしている、電話の相手は夫、僕の父。

「え!!!」
母の口からは聞いたこともない、大きな驚いた声。
SMAP解散を知った時にもそんな声聞いたことないぞ。

電話が終わって「何があったの?」と聞いてみたはいいものの、
ちょっと何言ってるかわからなかった。
サンドウィッチマン富澤バリに、その時の状況がわからなかった。

確認のため聞き返すと、
「〇〇(いとこの名前)が亡くなったって」
確かにそう言った、そう聞こえた。

「信じられない、ありえない、何かの間違いだ、間違えであってくれ。」
よくインタビューや映画で多用される定番台詞のような言葉しか出てこなかった。
一応そういうことが会ったことは理解した。
冷静だったつもりだったが、まだ信じていない自分がいる。

母はわかりやすく動揺して、「…しなきゃいけなかったんだよ!」とか
「どうして…」とか、もうどうにもならない可能性の話をしている。
父はお兄さん(僕からすると叔父)からそのことを聞いたらしい。
家庭内は今までにないくらい暗い空気に飲み込まれた。

死因は自殺、遺書はなかった。
色々な推測から恐らく仕事がキツかったっていうのが濃厚らしい。

ありえないし、いまだに信じられていないので、実感も湧かず、日常生活を変わらず過ごした。
会社にお葬式の日に休みをもらうため、「いとこが亡くなって…」と説明するもの業務連絡をするくらいの気持ちで話すくらいには、いつもの感じで対応した。

そして時はたち、お葬式当日。
そこには遺影、棺桶、お花などが並べられていた。

お花の中にはいとこが勤めていた会社からも届いたものが並べられていた。
皆がどんな感情をその花に抱いているかはわからない。
僕は恨みや憎しみ、怒りは何も生まない、そうわかっていたけど、何も感じなかったと言ったら嘘になる。

誰にいい顔をしてようとしてるのか。
バランスを取ろうとしてるのか。
相変わらず自分で自分が気持ち悪い、ヘドが出る。

家族葬なので、その場にいるのは去年おばあちゃんの葬式にいた同じ親戚たち。
2人ほど人が飢えてる、別のいとこたちの新しい子供だ。

去年とは明らかに空気が違う。
当たり前だ、おばあちゃんの時とは全然意味が違うのだ。
もう寿命、病気で人生を全うした高齢者。
まだこれからいくらでも、何者にでもなれる未来があるはずだったのに、自ら命を経った若者。

言っておくが、おばあちゃんが旅立って行くときも本当に悲しかった。
思い出も後悔もあった、もう少し色々してあげたかった、ひ孫の顔を見せたかった。
それとは違う、息子の死で、魂の抜け殻のようになっている叔父さん。
息子の死で、この世の終わりのように絶望している、触れるだけで壊れそうな、今にも決壊しそうなダムのような叔母さん。

子供は、親にとって世界そのものだ、そう物語っていた。
残念ながら僕には子供はおろか愛しあう人生の伴侶がいないので、この悲しみは今のところ理解したくても理解することはできない。
それでも伝わってくるものがある。

棺が開けられる。
綺麗な顔をしている。
しかし、その首には生々しくも痛々しい、赤紫の痕が今でも締め付けているかのように、消えることなく残り続けている。

その時、僕は実感した。
いとこは死んだのだと。

極楽浄土へ旅立つために、手や足に装束をつけてあげる。
今まで感じたことがない冷たさ、硬さ。
死を身近に感じた、死を怖いものだと感じた、死は周りの人を悲しませるものだと感じた。

式場には、新しい子供たちとは違う、見たことがない人がいた。
可愛らしい20代の女性、死んだいとこの彼女。
いや、あえてここでは婚約者としておこう。

誰よりも悲しみをあらわにし、天国で読んでもらうために、棺桶に手紙を入れる震えるその手、家族のような愛情に溢れている。
泣いても泣いても枯れることのない涙。
その子の姉らしき人が支えている、支えていないとその場に泣き崩れそうだ。

でも、幸せ者だな。
こんなにも死を悲しんでくれる人がいる。
みんなからいっぱいの愛情を受けて育った。
でも、親不幸ものだ。
子供は絶対に親より先に死んではいけない。
子供は生きているだけでも立派な親孝行なんだ。

泣きそうになった。
でもいとこの兄弟が泣いてないのに俺が泣くわけにはいかない。
いや、泣いてるところを見せてないだけだ、悲しくないわけがない。
絶対に俺なんかより想像を絶するほど悲しいに決まってる。
俺は気配を消そうとした。
すごい泣きたいのを我慢した。
俺は長男だから我慢できたけど、次男だったら我慢できなかった。

おばあちゃんのお墓がある寺の住職さん、この葬式の坊さんとしても来て、
念仏を唱えてくれている。
俺は泣きそうになるのを我慢するため、気を紛らわすために色いおrなことをずっと考えていた。

もし、俺が死んだ時、葬式には誰が来てくれるかな?
誰が悲しんでくれるかな?
嫁と子供はいるかな?
死について、仏について、色々考えてた。

そして、最後のお別れ、火葬。
火葬には時間がかかるから食事が用意されていて、それをみんなで食べる。
悲しい、それでも腹は減る、気がつけば結構疲れている、生きているからだ。
こういう時だからこそ食べて力をつけないといけない、味わって頂く。

食後にもらいタバコで一服。
火葬が終わり、そこには変わり果てた白い塊が散らばっていた。
人間は最期、質量保存の法則が通用しないくらいこんなにも少なく、小さくなる。
化学はこの場合においては通用しないらしい。
それとも、魂というものがあるとするのなら、それはとてつもない質量で、死と同時に肉体から質量を奪ってしまうのかもしれない。
新たな世界の法則を発見したが、これは証明せずに俺の墓場まで持っていこう。

お通夜ムードとはまさにこのこと。
でも、こういうときに子供というのは空気を変えてくれる。
無邪気に走り回り、大人を困らせ、無意識に大人の悲しさを察知し、構ってもらおうとする。
何にも染まってないまっさらな笑顔、その笑顔は伝染する。
子供に大人は勝てない、子は未来の宝だ。

親には心配をかけたくないとは言っても、子は親に心配をかけるもの。
親に安心してほしい、俺は死なん、100まで生きる。
死んだ人の分まで、残されたものたちは、1日でも長く生きなければならない。
そして、最高の生き様を、死ぬときに死に様を見せるために

仕事なんか辞めていい。
死んだら本当におしまい、無だ。
死んだ方がマシだ、楽だ、そう思うことがこれから先、生きていれば何回も目の当たりにするだろう。
それでも生きなければならない、乗り越えなければならない。

口で言うのは簡単だ。
それでもこのようなことが少しでも減ってほしいと思う。
死にたいくらいのことがあった時、俺にはできるだろうか?
誰かに助けを求めたり、死を上回るほど生きたいと思うことが。
めちゃくちゃ難しいと思う、負けそうになると思う。
そのための力が欲しい、強くならなければならない、なろうと思うことからでも始めなければならない。

みんな「自分は絶対大丈夫」って思う。
バイアスに惑わされるんだ。
大丈夫じゃない、誰にでも起こりうる。
悔しくないか?自分で自分の人生を生きないことが。
死ぬ気になればなんだってできる、死なねーよ。
月にタッチするなんてわけないよ。
I can fry.

人は死ぬと、周りの人を悲しませる。
誰にも悲しんでほしくない。
誰も死んでほしくない、でも人は必ず死ぬ。
だから俺は誰よりも長生きをする。
その途中、親、友達は死んでいくだろう。
その悲しみを全部俺が受け止めるから。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?