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Vtuberになったなら

私がVtuberになったなら、おっぱいの話をすると思う。
ごくごく高度に見せかけたひどく程度の低いおっぱいの話をすると思う。
Youtubeの規約にぎりぎりひっかからない。そんな微色な話をする。

おっぱいというのは抽象的で曖昧的な存在だ。
少なくとも私たち人間の認識下では。私たちは特定のおっぱいしか認識、観察することしかできない。私が鏡の中の自分のおっぱいを見る、認識するとき、(ここでは私、成人男性のおっぱいということはひとまず忘れよう)、おっぱいは、「私(成人男性の以下略)のおっぱい」という具体的で限定されたものとなる。私のおっぱいは、おっぱいということを認識可能であるが決しておっぱい単体ではない。
私たちはおっぱいをおっぱいだけの純粋な存在で観察することができないのだ。

私たちは、少なくとも私は、おっぱいに幻想を抱いている。

※ちなみに上の怪文は おっぱいを犬、私のおっぱいを佐藤さん家の柴犬のジョンと変換すると少しは分かりやすくなる。ジョンを認識してしまったら、ジョンは犬であるが、犬だけの価値のものではいられない。佐藤さんちのジョンを認識できても、この現実の世界で、「犬」は観察できない。
要するに、そこの犬は「佐藤さんちの」、「柴犬の」、「ジョン」という価値が付加された状態でしか認識することはできない。現実世界において「犬」とだけとらえることはできない。

私がデビューしたのなら、
挨拶は「どうも私は私だけのおっぱい、鈍重クソ雑魚機械人形 うすのろいど でええす」
もちろん美少女だ。できればおっぱいは欲しい。巨乳で。誰も傷つけない私だけのおっぱい。
でも、声はやたら低い。ゴリゴリのネカマだ。喋り方はどうせボロがでるので特に変えない。

おっぱいは平等だ。みんな心の中におっぱいを抱えている。前方にも。
好みはあっても優劣はない。
けど好みだからこそ争いは起きる。OPPAI談義LIVEのコメ欄は荒れるだろう。
そこで私は荒れるコメ欄に心を痛めたふりをして、かねてより計画していた奇行に走る。
仮想コメ欄との二時間LIVEを開催するのだ。
コメ欄は閉鎖されてるのになぜか、うすのろいど(美少女)は見えないコメ欄と会話している。
「ドラゴン池田」は巨乳好き、「佐々木タイガー」は貧乳好き。「さすっとハドソン」は大きさが問題だと思っているのはナンセンスだという。大事なのは形だと。
仮想コメ欄は盛り上がり、実際のリスナーはドン引くだろう。

何故なら、話しているのは一人だけで、コメ欄も私の脳内にしか存在しないのだから。
私の思うままに議論を流れにレールをしく。
おっぱいに大きさや、形など、ましてや乳首の色など関係ない。
そもそもおっぱいに、空間上での質量をもった物体としての価値を求めるなと。
触りたいとか揉みたいとか抜かすな、と。セクハラだぞコノヤローと。
こうなったらそれはもう、おっぱいではないのだ。

おっぱいから逃げているのだ。

そこで、このVの世界の可能性を問うのだ。
おっぱいとは何か。

そしておっぱいの原点。

仮想コメ欄会の次のLIVEで私はみんなに尋ねる。
おっぱいはおっぱい。だが、あなたは何をもっておっぱいをおっぱいと認識している?
漫画上には現実ではありえないおっぱいも私たちはおっぱいと認識することができる。例え説明がなくてもだ。では、どこまで単純化されたおっぱいの絵をおっぱいと認識できるだろうか。人によるとしかいえない。◎◎←をおっぱいとしてとらえられるだろうか。
マーチス准尉ならおっぱいだというだろう。だが大半の人間はNoだ。
おっぱいは記号化できるか。完全にはできない。
でも上にあげたものをひとまずおっぱいの記号であると伝え認識を変えることは可能だ。
ここで質問をする。記号化されたおっぱいは魅力的だろうか。
こじらせた童貞以外はいいえと答えるだろう。
記号化することによっておっぱいからエロス的視線(付加価値によるもの)を部分的に取り除くことができる。
記号化は抽象的事項を認識するための助けとなる。だが、問題は記号という価値が付加されてしまうことだ。
ここで問おう。
君たちはおっぱいが好きだというがここまで「おっぱい」と向き合ったことがあるだろうか。

私が3D化されたなら、私はすこしはおっぱいに正面から向き合えるだろう。
私は跳ねるだろう。
    弾まさせるだろう。
        でも、そこにおっぱいはない。
でも、あるんだ。
虚飾のおっぱいだ。虚乳だ。
でも、巨乳だ。

おっぱいはない。でも、あった。そこになくても、おっぱいを見出すことができる。
私、成人男性のものとは別のおっぱいがそこに矛盾しながらも存在する。
2.5次元の新しいおっぱい。現実との矛盾。そこに在りてそこに無し。
これはおっぱいのオリジンに近づくおおきな一歩になる。
私は私を嘲笑うだろう。

でも、言える気がする。どこまでも澄んだ目で。

「私は、おっぱいが好きです」

おっぱいのオリジンはまだ遠い。
だが、すべてのおっぱいは可能性に満ちている。

私は一年も満たずに、嫌悪と殺意をあつめ引退するかもしれない。
でも、おっぱいを純粋なおっぱいとしていつか向き合いたいから。

ほんとはただ、おっぱいってようつべで連呼してたいだけなのかもしれない。

でもどこまでも澄んだ濁った眼と聡明なふりをした頭でおっぱいに向き合う。

そういふVにわたしはなりたい。

※この文章を書いている私は哲学の課題見直しとカフェインの過剰摂取で頭が若干イかれているのでご了承願いたい。哲学学徒なのに最低限論理立てできてるかもわからん。もううううう  おっpぇ 乙π



   なんだこれは 


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