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大好きな人が伝えてくれた震災

10年以上、櫻井翔くんのファンをやっている。
大好きな彼を語るに切っても切れないもの、それが報道、そして取材だ。

まだ嵐を知って1年ちょっとしか経っていない小学生4年生の終わり、私は震災を経験した。
大揺れする世界のなかで見慣れたはずの街が見たこともない黒々しい姿に変わり果てて行く様子を見ながらも、高台に住む私は何が起こっているのか分からないまま次の日には家族と知らない家に避難させられていた。
原発が何かも知らず外を出歩くことを止められた避難生活が終わり、4年生の3学期が終わりを告げないまま5年生になった。
イレギュラーだらけの生活のなか、東北で今何が起こっているのか、伝えてくれたのは彼だった。

この10年間の自身の報道を、私が大好きな彼自身の言葉で綴ってくれると知り、買わずにはいられなかった。
ニューズウィーク日本版 3月16日号

たった1ヶ月しか経っていない4月11日、私の地域は大きな余震による停電でテレビは観れなかったが、彼は宮城県を訪れ現地から報道していたそうだ。
1年経っても2年経っても、彼は被災地に来ることをやめなかった。現地の人と深く関わり、それぞれの想いに寄り添い、言葉を紡いで届けてくれた。放送されないところにも、それぞれの被災があることを強く感じながら。

今でも覚えている、
テレビやコンサートではキラキラしている彼が、防護服に身を包み除染作業に徹していた映像を。
数え切れないほど大量の「黒い袋」の前で、寒そうな暗闇のなか目を潤ませながら必死に訴えかけてくれたことを。
亡くなった子のチームメイトとサッカーをしたこと。卒業式ができなかった学生の歌の伴奏を弾いたこと。

小学校を卒業する頃には私の生活は元に戻り始めていた。体育館に敷き詰められていた布団はいつの間にか消え、給食も3種類の皿が並ぶようになった。体育の授業も校庭でできるし雨の日の外出が禁じられることも首から小さな計測器を下げて歩くこともない。震災後減ったり増えたりしたクラスメイトや校舎のヒビの跡にも慣れた。音楽室から見える海もあの日以前と変わらない。

それでも「復興」は終わっていないのだと、彼は伝えてくれた。私は生まれ育ったこの場所でほとんど変わらない生活をしているのに、生活を大きく変えた人が、いまだ故郷に帰れない人がいると。
車に乗れば行ける距離だけど、行けない。必要以上に行くことは憚れていた。行かなくていいなら行かないほうがいい、危険だと。私は自分の住む地域の外が今どんな様子か知らなかった。
身近に私より大きな被害を受けた人がいても、震災後この地に引っ越して来た人がいても、何も聞けなかった。どんな想いでいるのかなんて、知る術がなかった。
だけど、彼は行った。そして取材した。伝えるために。

高校生になって復興支援活動に関わるようになった。それまであまり振り返らなかった震災や復興について深く考えるようになった。
自分の住む地域の外を考える時、彼の報道が頭に浮かぶ。どんな様子か、どんな想いか。一人一人の想いに寄り添う彼が伝える「復興」を少しでも前進させることができればいいな、と考えたりして。
情報は、調べれば出てくる。図書館で読んだ資料も、私が知りたいことを教えてくれた。だけど、当事者と深く関わる彼のリアルな記憶と感情は、復興に携わる私のこれからの道標ともなった。

伝えてくれた人が翔さんだったから、私はNEWS ZEROを観た。
翔さんが伝えてくれたから、被災を、復興を知った。
伝え続けてくれる翔さんだったから、もっと好きになった。
言葉を何より大切に扱う翔さんだから、何より信用できた。
想いに寄り添える翔さんの取材だから、安心して観られた。

好き以上に募る尊敬と感謝は10年目に綴られた文章を読めば溢れるばかりでとどまることを知らない。そしてこれからも翔さんのファンであることに誇れる気持ちは変わらない。

翔さんの綴る言葉には絶対に力がある。
「文章」というもので初めて涙を流したそれが翔さんのもので本当に良かった。

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