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「芸術は僕を守ってくれない」から

たとえば、ふと夜に空を見上げるとあまりに大きく明るい月が浮かんでいて、その感動体験を留めようとカメラで写真を撮るとしよう。
でも、写真には「目で見た月」から、大きさ・鮮明さ・感動・その他いろいろな要素を4〜6割ほど差し引いた「やけに明るい豆のような丸」が写っている。

舞台やライブなどの“生の体験”は、月を見ることに似ている。

空気の振動や温度、匂い。まぶしさ、音の響き。立ち会うことでしか得られない情報がある。

ずーっとCDやライブ映像、YouTubeに上がってるMVで観て聴いて楽しんでいたバンド。ようやくライブに行くことができて、生で音と空間を感じた時の感動体験。100%の原液を全身で浴びるような感覚。

撮影OKタイムサービス中の写真。
あまりに中央で、あまりに近すぎて、少し後ずさったのを覚えてる。サカナクションのライブにて。

忘れることはないだろう。けど、あの感覚はあの時あの場でしか感じることはできない。


私は4月から舞台照明の会社に就職した。舞台で照明機器を準備したり操作するお仕事。
あるはずの研修はなくなり、現場(劇場・ホール)での予定も当然ながらなくなった。そもそもの舞台やライブ等の催事が一切ないからだ。単純明快な理由。

舞台やライブ。“生の体験”を有する芸術が危機に瀕している。ある芸術に人がふれる機会が失われれば、当然その芸術は廃れる。これは何も今の混乱に陥ったから危惧されていることではない。

無論、映画館や書店も文化をはぐくむ場であり、芸術にふれる機会を有するものとして危機に瀕していることは例外ではない。


芸術の衰退の起こりはこれだ、と指差して明らかにすることは私にはできない。芸術はしばしばデジタルの波に飲まれつつあるアナログなものであると捉えられがちだが、それは違う気がする。また、人々が芸術に対して無関心になりつつあるというのも違うだろう。

人が存在する限り芸術も存在する。作品を生む人も、その作品を楽しむ人も。これだけは確かなこと。

芸術は常に最も人間的な遊戯であり、人間臭の最も逆説的な表現である。

文芸評論家の小林秀雄は芸術は「人間らしさ」の最たるものだと述べる。小林秀雄が好きなので(間を埋めるためにも)突拍子なく話題に出してしまいましたが……

つまり人が「作品に関与する」「作品と関係する」ことによって、作品の価値と意味が生まれる。詩であれ、小説であれ、絵画であれ、舞台や音楽も、ただ描かれただけで作者以外の誰の目にも触れなければ、描いた本人以外にとっては意味を持たない。

この文章も同じこと。
「書く」自己満足のためだけならばメモや日記帳でいい。「書いたものを読んでもらう」そうして意味のあるものにしたい、そんな狙いがあるから投稿する。(少し明け透けないことを言ってしまった)

今はどの劇場も客を入れることはできない。当たり前のことだが、私のような右も左もわからない素人の舞台照明が貢献できることもない。

ある話では、直前で中止が決まった公演の現場で「(稽古をしてきた)演者に仕込みのできた劇場の様子を一目でいいから見せてやりたい」と劇場の人間にお願いされ、撤収作業を遅らせたとも耳にする。

準備を続けてきた舞台が目前で中止となり、苦肉の策で「無観客」での公演を「配信」する。この無念さは計り知れない。作品と人が関わる(観る・読む・聴く等)ことで価値と意味が生まれる。
が、“生の体験”あっての芸術はすなわち、同空間に立ち会う“生の観客”あってのものだ。

「映像にはカメラワークによる“意図”がある。生(ナマ)で観るとき、その“意図”は自分なんです」とある時に後輩がそう語ってくれた。本当に優秀な視点、感心させられて仕方がない。
カメラの意図が介入しない、起こっていることのイマを切り取れるのは絶対的自分だけの空間。それが“生(ナマ)”であり“LIVE”。

大学の演劇部の後輩たちが落胆している様子も目に浮かぶ。新入生歓迎公演を準備・練習してきたが、新入生を前に披露することができなくなった。
上映会という形になるだろうが、それがいつになるかもわからない。過去に大学側の都合で公演が上映会になってしまった時、みんなが無念を口にした。


この話の本筋となってくる「芸術の衰退」に話を戻そう。これは車離れのような問題とは明確に別なものだし、人々の芸術に対する意識や関心が薄れてきたとは到底思えない。

だってほら、インスタとかでたまに流れてくるアートっぽい写真とかめっちゃリアルな絵とか、アート作品が出来上がる過程を早回しにした動画とか、そういうのみんな好きでしょ?まぁ、アートにこだわる必要はないんだけどさ。

要は「場(それに付随する機会)」の減少ではないだろうか。ある場所に行って、芸術にふれる。そういう機会のゆるやかな減少、ゆるやかな“場”の衰退。

芸術自体は衰退してはいないが、場は衰退する。それによって芸術が人に見られる機会を少しずつ失う。芸術が生まれる機会も。連鎖的に「芸術の衰退」になってしまうのかもしれない。

あくまで空理空論。

もちろんこの「芸術」には舞台やライブも入っている。昨今では経営が立ち行かない劇場やライブハウスがかなりの数出てきた。劇団もアーティストも苦境。“生の体験”の“場”が着実に消えている。

中には「そんなとこ行かないし、潰れても私には関係ないわ」という人もいるでしょう。
中には「そんなもの自主サークルで、趣味の範囲でやってくれ。今まで何の役にも立たなかったのにこんな時に金をせびるな」という人もいるでしょう。

前者の意見はその人の視点に立てば、そりゃそうだよなと感じる。パチンコ屋が潰れても雀荘が潰れても、ゴルフ用品店が潰れても「私はそれを嗜まないし、関係ないかな」とそれらに関わりのない自分なら思ってしまう。

後者の意見を持つ人、賛同する人が一定数いる事実に驚いた。たしかに芸術自体は災害や疫病、傾いた経済に直接的な効力を持つものではない。
芸術に(または芸術家に)病院の代わりはできないし、土木建築業の代わりはできない。農家や政府の代わりはできない。

わざわざそれをトゲトゲしく表立って発言することは非常に人間としてナンセンスだけども。

Twitterで「潰れてどうぞ」でツイート検索してみよう。いろんな視点とともにいろんな人(主にナンセンスな人たち)がいることがイヤでも理解できよう。


小林賢太郎(ラーメンズ)の舞台も中止が決定した。「今回は観に行くぞ!」と意気込んでた矢先のこと。大学の卒業論文にするほど小林賢太郎に魅せられた私には、あまりにショッキングな知らせだった。

エンターテイメントの役割は「人を幸せにする」のではなく「幸せになろうとする人の手助けをする」ということだと僕は考えています。

小林賢太郎は著書の中でこんなふうに語る。
(なんか誠実で超カッケー!な言葉だ)

「飢えた子供の前で文学は役に立つか」と問うたジャン=ポール・サルトルの有名な言葉にも通ずるのではないかと勝手に考えを巡らせたりもする。

芸術は、舞台は、ライブは、映画や小説や絵画は、果たして疫病やそれによる不利益を、生活苦にあえぐ人を、潰れてしまった会社を救うことができるだろうか。答えは「救えない」が妥当だろう。

しかし、「困難に立ち向かおうとする人の手助けをする」ことはできるはず。そうであると信じたい。

アーティストがYouTubeでライブ映像の配信をする、舞台作品が期間限定で無料公開される、そんな動きはきっと苦境を乗り越えて「幸せになろうとする人の手助け」になっているはず。

小林賢太郎はこんなことも語る。

芸術は僕を守ってくれない、しかし芸術は僕を裏切らない

作り手として受け手として、それぞれの立場に等しくこの言葉は降り注ぐ。
取り巻く状況は変わらなくとも、元気になりたくて好きなアーティストの作品やライブ配信を観れば、きっとその「元気になりたい」と思う気持ちに応えてくれる。


これが終わったら、好きな人と映画に行くもよし、舞台やライブに行くもよし。でも最初にするのは多分「人と会うこと」だろうな。この期間を機になにかはじめてみるのもいいかもしれない。
観たり聴いたり、書いたり描いたり。あるいは、弾いたり歌ったり踊ったり。作ったり。

ただ今はこの夜を乗りこなすだけ。







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