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リンダ・ロンシュタットとグラム・パーソンズの決して意外ではない接点

前回前々回の記事で、「カントリーロックのパイオニア」と言われるグラム・パーソンズの生涯について紹介した。1960年代末から70年代初頭のロサンゼルスで華開いた「カントリーロック」──その形成の過程でグラム・パーソンズが果たした役割は大きいが、カントリーロックは決してグラムひとりが作り上げたものではない。全米各地からこの地に引き寄せられてきた若者の才能とエンターテイメント業界のコマーシャリズムが入り混じった一種独特なカルチャーの下で、ヒッピー世代のミュージシャンたちが互いに影響を与え合いながら創り出していったひとつの音楽形態、それがカントリーロックだった。そんな萌芽期のカントリーロックをグラムと同じ時空で模索していたのが、リンダ・ロンシュタットだ。二人は具体的な接点も多かったが、そのことは案外知られていないのではないだろうか。今回は、この二人の接点を見ていくことで、当時の「カントリーロック」が目指していた方向性を示唆してみたい。

Linda Ronstadt『Silk Purse』(1970年)

グラム・パーソンズとリンダ・ロンシュタットの接点を見ていく際、まず注目すべきは、二人が共に取り上げている曲の多さだ。もっとも、これらはほとんどが70年代初頭、つまりカントリーロック萌芽期に限られる。グラムが取り上げた曲と同じ曲がリンダのアルバムに最初に登場するのは、彼女がナッシュビルに出向いて録音したセカンド・ソロアルバム『Silk Purse』(1970年)から。カントリー・シンガー&ソングライター、メル・ティルスの「(Sweet) Mental Revenge」がそうだ。この曲は、アウトロー・ムーブメントを起こす前のウェイロン・ジェニングスが68年にヒットさせたものだが、グラムはフライング・ブリトー・ブラザーズ時代にこの曲をライブでの定番レパートリーにしていた。(正規のアルバムには収録されていない)

フライング・ブリトーズ・ブラザーズのブートレッグCD『Saddle Up the Palomino!』:69年6月LAのカントリークラブ「パロミノ」でのライブを収録したもの。上のカセットは、筆者が93〜4年頃にグリニッジビレッジの露天商で買ったブリトーズのライブ音源。こちらは69年4月サンフランシスコ「ウィンターランド」での演奏。いずれのライブでも「Sweet Mental Revenge」が演奏されている。

聴き比べてみると、ウェイロン版のいかにもナッシュビル産的な「無難な」アレンジに比べ、ブリトーズのバージョンがいかに「ロック」かがよくわかる。とりわけ、西海岸のカントリーロックを特徴付けるひとつの要素と言えるがのが、ファズを効かせたスニーキー・ピートのペダルスティール。同時期にデビューしたポコのラスティ・ヤングも似たような音を奏でていた。

ただ、この時期(1969年)のブリトーズの場合、ライブ演奏がかなりラフだったせいもあって、まだカントリーロックの形を模索中という雰囲気がある。それに比べて70年のリンダのバージョンは、スタジオ録音ということもあるが、もっとこなれている。ロック的なノリと、フィドルやバンジョーなどのカントリー楽器がより自然に溶け込んでいるのだ。一方で、彼女がところどころで聞かせるパンチの効いた歌い方は、それまでの女性カントリーシンガーにはあまりなかったものだっただろう。

続くリンダのサードアルバム『Linda Ronstadt』(1972年)には、さらに2曲、グラムのレパートリーが収められている。ひとつは、グラムがバーズ加入前に録音したインターナショナル・サブマリン・バンドのアルバム『Safe At Home』(1968年)に収められていたジョニー・キャッシュ作品「I Still Miss Someone」(オリジナルは1958年)。もう1曲は、やはり50年代のカントリー作品で、レイ・プライスがヒットさせた「Crazy Arms」。こちらのグラム・バージョンは、彼の没後の76年にリリースされた未発表曲集『Sleepless Nights』で陽の目を見たものだが、元々はブリトーズの2枚目と3枚目の間(1970年初頭)に行われたカントリーソング・セッションで録音されたもの(出来が芳しくなく、その時点でのレコード化は断念された)。リンダの方がやや後からレコーディングしているわけだが、このリンダ版でペダルスティールを弾いているのは、ブリトーズのスニーキー・ピート。ちなみに、ドラムスはドン・ヘンリー、ハーモニーヴォーカルはJ.D.サウザーだ。

「I Still Miss Someone」に関しては、リンダが69〜71年に掛けてテレビ番組『ザ・ジョニー・キャッシュ・ショー』に何度か出演していた縁から選曲された可能性もあるが、時系列だけで見ると、基本的にグラムが先にカバーした曲をリンダが後から録音した形になっている。リンダがこういったカントリーソングをレパートリーにしていった経緯については、2013年に出版された彼女の自伝『Simple Dreams — A Musical Memoir』に、ストーンポニーズ解散後(1968年頃)のエピソードとして触れられている。

私はソロアクトとしては、あまりにも準備不足だった。ストーンポニーズでは、基本的にハーモニーシンガーだったからだ。曲作りは(ボブ・)キンメルに頼っていたから、自分のレパートリーと言えるようなものがなかった。それで、トゥーソンにいた子供時代に好きだった音楽の中に何か使えるものがないかと考え始めた。そうして思い付いたのが、姉が集めていた45回転盤やアリゾナの田舎町のジュークボックスで聞いていた50年代のカントリーソングを試してみることだった。そうした曲はコード進行も単純だったから、レイ・プライスの「Crazy Arms」やハンク・ウィリアムスの「I Can't Help It (If I'm Still in Love with You)」なんかを自分のギターでやってみることにした。

[当時のリンダのマネージャーだった]ハーブ(・コーエン)は、そんなことは時間の無駄だと考えていた。「君はロックステーションにはカントリーすぎるし、カントリーステーションにはロックすぎる」──彼はそう言った。私は、彼を無視して、ナッシュビル産の曲をカリフォルニアらしい「ひねり」を加えて演奏できるミュージシャンを探すことにした。

From Linda Ronstadt "Simple Dreams — A Musical Memoir"
Translation by Lonesome Cowboy

そんな中でリンダが最初に注目したのが、当時バーズのメンバーだったクラレンス・ホワイトとジーン・パーソンズが開発した「ストリング・ベンダー」と呼ばれる、弦のベンディング機構を備えたエレキギターの音だった。スティールギターのようなその独特の音は、リンダ自身が「カントリーロック・サウンドの土台になった」というものだが、その奏法を駆使するようになった何人かのギタリストたちの中で、彼女と最初に接点ができたのがバーニー・レドンだった。

リンダがバーニーに出会ったのは、彼女がまだストーンポニーズのメンバーだった頃。当時、バーニーはサイケデリックなカントリー・フォーク・バンド「ハーツ&フラワーズ」のメンバーだったが、いずれのバンドもキャッピトル・レコードに属しており、プロデューサーも同じニック・ヴェネットだった。そんな繋がりから、ヴェネットが名手バーニーをストーンポニーズのセッションに呼んだのが始まりだ。その後バーニーは旧友クリス・ヒルマンに請われてフライング・ブリトー・ブラザーズに参加するが、この時点でリンダとブリトーズのメンバーたちは、若手ミュージシャンたちの交流の場となっていたクラブ「トゥルバドール」に集う仲になり、ジャムセッションなども行うようになった。リンダいわく、彼らを結びつけたのは、「カントリーの曲とハーモニーをロックンロールのリズムセクションに結び付けたいという共通の思い」だったという。先の自伝に彼女はこう綴っている。

まだ形が出来上がっていない音楽を演奏するためにバンドを組むというのは、簡単なことではなかった。物事をビジネスの面からしか見ないハーブに音楽の才はなく、助けにならなかった。彼の助言はと言えば、「ミュージシャン組合に電話して『誰かギタリストを寄こしてくれ』『こう弾いてくれ』と言うんだ」──そんな感じだった。もちろん、音楽はそんなやり方で作るものじゃない。

レコーディングやライブのために私がミュージシャンを雇う際、まず期待するのは、共通の感性があるかどうかだ。そのミュージシャンが何を見て、何を聞き、何を読んできたか、青春時代をどこで過ごしたか、そういったことがありとあらゆるところでその人が奏でる音に現れる。演奏の選択肢は山ほどある──どのくらい激しくあるいは優しく弾くか、リズム的にどのタイミングで音を入れるか、どんな質感やメロディの装飾を組み込むか、どこでハーモニーを加え、どうコードを響かせるか──これらすべてが一瞬のうちに行われる。それは意識して出来るようなものではない。慣れから来る本能的なものだ。気の合うミュージシャン同士が明確なビジョンを持って集まった時、そこには純粋な喜びが生まれる。しかし、共通の感性がなければ、悲惨な結果しか生まない。

出典・翻訳:同上

彼女のこの言葉は、70年代前半の南カリフォルニア産の音楽がなぜ今もって多くの人たちの共感を呼ぶのか、その理由を端的に表しているように思える。それは、例えば、同じLA産でも、「レッキング・クルー」と呼ばれたスタジオセッショッメンがバックを付けた60年代の音楽や、80年代になって量産された「産業ロック」や「AOR」といった音楽とは、良し悪しは別にしても、根本のアプローチが異なる。

リンダ・ロンシュタットの自伝『Simple Dreams — A Musical Memoir』(2013年)

リンダの自伝には、グラム・パーソンズに関するある興味深いエピソードが紹介されている。バーニー・レドンがブリトーズにいた当時、彼はスケジュールの許す範囲でリンダのバックも掛け持ちしていた。ある夜、テレビの仕事を終えたリンダとバーニーがいつものようにトゥルバドールに向かうと、そこにはグラムがいた。二人の姿を見つけたグラムは、今からセッションをしないかと彼らを誘う。グラムが先導して向かった家にいたのは、『Let It Bleed』の仕上げのためにLAに滞在していたミック・ジャガーキース・リチャーズだった。グラムがマール・ハガードの曲を歌いまくり、リンダとバーニーがそれにハーモニーを付けた。当時、カントリーミュージックの吸収に執心していたキースが、それに合わせてギターを弾いたという。

しばらくしてバーニーが先に帰ると、今度はグラムが「ジョージ・ジョーンズを歌おう」と言い、当時のジョーンズの妻でシンギングパートナーだったタミー・ワイネットのパートをリンダが歌った。その後、今度はキースが、出来たばかりという曲を二人の前で披露した。その新曲「Wild Horses」を大いに気に入ったグラムは、ストーンズよりも先に自分にレコーディングさせてくれないかとミックとキースに頼み込んだ。このグラムの大胆なリクエストには、リンダも驚いたという。そうして、明け方になって、グラムがリンダをバイクで送って行こうと言った時、彼女は青ざめたという。グラムは既にマリファナでヘロヘロになっていたからた。

このエピソードは、グラム・パーソンズがエミルー・ハリスに出会う(=クリス・ヒルマンに紹介される)2年ほど前の話だ。リンダは後年、ジョージ・ジョーンズの曲「Sometimes You Just Can't Win」をJ.D.サウザーとデュエットしているが、リンダとグラムが共に歌った曲として音盤に残されているのは、エミルーと共にハーモニーを付けたグラムの自作「In My Hour of Darkness」しかない。グラムとリンダの純粋なデュエットがどのようなものだったのか、今となっては想像することしかできない。

ここまでリンダとグラムの共通の選曲をカントリーの側面から見てきたが、この時期の西海岸カントリーロックのもうひとつ見逃せない側面は、R&Bへのアプローチだ。共に1946年生まれのリンダとグラム。二人共、最初に影響を受けたアーティストはエルヴィス・プレスリーだった。「ロッカビリー」と呼ばれた初期エルヴィスの音楽の下地になっていたのは、当時「ヒルビリー」と呼ばれていたカントリーミュージック、そして黒人によるブルースやリズム&ブルースだ。この二人に限らず、彼らと同年代のシンガーたちの多くは、顕在にせよ潜在にせよ、黒人音楽からの影響を受けていた。

リンダは、前述のサードアルバムで黒人シンガー・フォンテラ・バスの「Rescue Me」をかなり黒っぽいフィーリングで歌っているが、それとは別に、カントリーロック萌芽期のもうひとつの特徴として、R&Bソングとカントリーとのフュージョンとも言えるような音作りがある。グラム在籍時のフライング・ブリトーズ・ブラザーズは、当時まだ比較的新しいマテリアルだったダン・ペン作のサザンソウル作品2曲をファーストアルバム(69年)でカバーしている。ひとつは、アレサ・フランクリンが67年に歌った「Do Right Woman, Do Right Man」。もうひとつは、同じ67年にジェイムス・カーがヒットさせた「The Dark End of the Street」だが、こちらは後にリンダもカバーしている。

ブリトーズのバージョンで特徴的なのは、この頃最も冴えを見せていたパーソンズとヒルマンによるエヴァリーブラザーズを思わす2声ハーモニー。そして、スライドギターのようなキックを効かせたスニーキー・ピートによるペダルスティールの音だ。一方、リンダのバージョンは、もう少し時代が下った74年の名作『Heart Like A Wheel』に収録されており、申し分ない完成度だ。そこではペダルスティールは使われていない代わりに、ボブ・ウォフォードによるストリングベンダーを使ったギターソロがカントリーロック風味を醸し出している。一方で、この曲のコーラスにはシシー・ヒューストン(ホイットニー・ヒューストンの母親)も参加、ソウルっぽさも生きている。同じアルバムからリンダに初の全米No.1ヒットをもたらした「悪いあなた」("You're No Good")も、オリジナルは60年代のR&Bヒットだ。

『Heart Like A Wheel』の前作で、アサイラムに暫定移籍したリンダがこれまでと違う洗練された音を聞かせるようになったアルバム『Don't Cry Now』(1973年)にも、サザンソウルのカバーが収められている。ウィリアム・ベルの「Everybody Loves a Winner」がそうだ。『Don't Cry Now』は私が3枚目くらいに自分で買ったレコードで、私の音楽体験の中で大きな意味を持つ1枚だが、当時中2か中3の少年には、この曲がR&Bだとは全く認識できていなかった。知識に乏しかったせいもあるが、音自体が非常にカントリーっぽく聞こえたからだ。(今、聞くと、後半のホーンセクションの使い方などは多分にサザンソウル的だ)。この曲でのスティールギターは当時ライブでもバックを務めていたエド・ブラックだが、アルバムにはスニーキー・ピート、クリス・エスリッジ、リック・ロバーツら、元ブリトーズ組も参加している。

実はこの曲、グラム・パーソンズ在籍時のブリトーズのレパートリーにもなっていた。正規のアルバムには未収録だが、非正規のライブ音源で聞くことができる。下のリンクは69年のパロミノでのライブで、前掲のCDと同日の演奏と思われるが、そのCDに入っていないのは恐らくあまり出来が良くなかったからだろう。グラムのヴォーカルやギターは酔っ払ってダレているように聞こえるし、マイケル・クラークのドラムスもこの曲本来のグルーヴを乱している。ただ、彼らがこの種のサザンソウルに西海岸カントリー的な味付けを施そうとしていたことだけは理解できる。

こういった演奏を聞くと、先日紹介したバーニー・レドンとクリス・ヒルマンの対談で、ヒルマンが語っていた言葉を思い出す。

今でもはっきり覚えているけど、当時J.D.サウザーと組んでいたグレン(・フライ)がトゥルバドールに僕ら(ブリトーズ)の演奏を見に来てたんだ。僕らのダラけた演奏を見て、グレンがどう考えていたかは分かっていたよ。「これは悪い見本、こんなふうにはやらないでおこう」ってね。

Country Music Hall of Fame ウェブサイト掲載の動画より
翻訳:Lonesome Cowboy

グレン・フライが先輩格であるブリトーズの演奏から良い面・悪い面を学んだのと同様、リンダも彼らの音楽からヒントを得たり、反面教師的に学ぶことも多かったのではないだろうか。ブリトーズに関して言うと、彼らはデビュー盤とセカンドアルバムの間の時期に、黒人R&Bシンガーのラリー・ウィリアムズ(ビートルズのカバーで知られる「Dizzy, Miss Lizzy」の作者)、そして当時彼と共演していたジョニー・"ギター"・ワトソンをプロデューサーに迎えて、シングル曲のレコーディングまで行っている。これはグラムのアイデアだったそうだが、ブリトーズは、ウィリアムズの曲「Bony Maronie」(ジョン・レノンがアルバム『Rock 'n' Roll』で取り上げていた曲)もライブでのレパートリーにしていた。

ただ、前述のサザンソウル・カバーに関しては、ミシシッピ州出身でR&Bに精通していたクリス・エスリッジによるインプットが大きかったと思える。エスリッジは、ブリトーズのデビュー盤で「Hot Burrito #1」「Hot Burrito #2」の2曲をパーソンズと共作しているほか、後にパーソンズのソロに収められる「She」も共作しているが、いずれの曲にもサザンソウル的なゆったりとしたグルーヴが感じられる。また、エスリッジは、75年にヒルマンやパーソンズ抜きでブリトーズが再結成された際のアルバム『Flying Again』にも参加しているが、そこでは2曲のダン・ペン作品が取り上げられている。一方で、オリジナル・ブリトーズは、エスリッジが抜けた後の2枚目や3枚目では、ソウル・オリジンの曲はほとんど取り上げていない。

ウィリアム・ベルの「Everybody Loves a Winner」は、リタ・クーリッジも72年のアルバム『The Lady's Not For Sale』で歌っている。メンフィス出身でこの曲の共作者ブッカー・T.ジョーンズとも深い関係にあるリタがこの曲を取り上げるのは、より自然な流れだろう。彼女をはじめ、いわゆるスワンプロック系のアーティストたちはR&Bからの影響がより顕著であり、そういった曲をよりストレートな表現で取り上げていた。60年代からセッションメンとして実績のあった人たちが中心となっていたスワンプロック人脈(リオン・ラッセル、デラニー・ブラムレット、ジム・ゴードンら)と、トゥルバドールなどのクラブで切磋琢磨していたカントリーロック人脈とでは、音作りへのアプローチも微妙に異なっていたが、双方の人脈が「集合の和」のように重なり合っていた事実も興味深い。

クリス・エスリッジは、クラレンス・ホワイトとともにリタのデビュー作に参加しているし、ブリトーズの所属レーベルは、リタやジョー・コッカーと同じA&Mだった。他方、グラム・パーソンズは、デラニー&ボニーの『Motel Shot』にも顔を出している。1970年前後数年間のLAでは、こういったミュージシャン同士の横の繋がりが特に闊達だったと思える。レコード会社やマネジメントとアーティストがある程度同じベクトルを向いていたことも、良い音楽が生まれた要因だったように思う。

リタ・クーリッジのアルバムのクレジット。右はファーストアルバム『Rita Coolidge』、左はサード『The Lady's Not for Sale』のもの。リオン・ラッセル、マーク・ベノ、カール・レイドルといったスワンプ系から、ブッカー・T.ジョーンズ、ドナルド・ダック・ダン、スプーナー・オールダムといったサザンソウル系のほか、クリス・エスリッジ、クラレンス・ホワイト、バーニー・レドン、アル・パーキンスといったカントリーロック系ミュージシャンのクレジットも見られる。

リンダ・ロンシュタットがグラム・パーソンズのレパートリーを自身のアルバムで取り上げたのは、前述の「The Dark End of the Street」(1974年)を最後に途絶える。その後は、1987年になって、ブリトーズの2枚目に収められていたトラディショナルソング「Farther Along」をエミルー・ハリス、ドリー・パートンとの『Trio』で取り上げているだけだ。リンダは、74年のアルバム『Heart Like A Wheel』で初の全米No.1を獲得し、これ以降、アメリカ随一の女性シンガーとして成熟期に入っていく。ピーター・アッシャーという有能なマネージャー兼プロデューサー、そして、アンドリュー・ゴールドやケニー・エドワーズといった安定したバックミュージシャンを得たこの時点で、彼女自身の「カントリーロック模索期」は修了したのだろう。

左:『Don't Cry Now』(1973年)、右:『Heart Like A Wheel』(1974年)

このように、グラム・パーソンズと共通するレパートリーを数多く取り上げてきたリンダだが、意外なことに、彼女がグラムのオリジナル作品を取り上げた痕跡は見られない。これには二つの理由(何れかまたは両方)があるのではないかと、私は推測する。

ひとつは、歌に感情移入することを旨としているリンダが、グラムの書く歌詞に十分に共感できなかったのではないかということ。70年代のリンダは、古い曲のカバーとともに、自分と同世代で、個人的にも関わりのあったシンガーソングライターたちの曲を数多く取り上げ、その作者以上の感情表現で歌いこなしてきた。一時恋仲だったJ.D.サウザーをはじめ、エリック・カズ、ニール・ヤング、ジェイムス・テイラー、ウォーレン・ジヴォン、カーラ・ボノフらの曲がそうだが、これらの曲の多くは、パーソナルでサブジェクティブ(主観的)なものが多かった。それに比べて、グラム・パーソンズの書く歌詞はどこか曖昧で、本人でなければ真意がわからないようなものが多い。リンダは『Don't Cry Now』でブリトーズのサードアルバムから「Colorado」を取り上げているが、それはコロラドから都会に出できた主人公が夢破れて故郷に思いを馳せるという、リック・ロバーツの曲。アリゾナから歌手になる夢を抱いてLAにやってきたリンダにとって、「自分ごと」として気持ちを入れ込みやすい曲だったのではないだろうか。

もうひとつの理由は、グラムの曲は、彼が急死する直前のシンギング・パートナーであり、いわば彼の遺志を継ぐ立場にあったエミルー・ハリスが数多く取り上げていること。「グラムの曲はエミルーが歌うべき」という思いがリンダの中にあったのではないか──そんなふうに私に推測させてしまうリンダの言葉が、彼女の自伝の中にあった。

リンダが最初にエミルーの名を聞いたのは、エミルーをグラムに紹介したクリス・ヒルマンからだった(クリスがエミルーをグラムに紹介した経緯については、以前こちらの記事で紹介した)。クリスは、「君たちふたりは同じような音楽を追求しているから、絶対に気が合うはずだ」と言って、リンダにエミルーに会うことを勧めたという。その後暫くして、ニール・ヤングの前座でツアーを行っていたリンダと、エミルーが参加していたグラムのバンド「フォーリン・エンジェルス」のツアーの日程がヒューストンで重なることになり、リンダは、グラムのバンドの演奏を見に行った。1973年初頭のことだ。初めてグラムと一緒に歌うエミルーの歌を聞いた時の感想をリンダは次のように綴っている。

私は、ちょっとしたジレンマを感じた。まず第一に、私は彼女の歌をとても気に入ったということ。そして第二に、私が思ったのは、私がやろうとしていたことを彼女がやっていたということ。しかも、私より数段上のレベルで。その時、私が瞬時に下した決断は、その後の私の人生における音楽の聴き方・楽しみ方を左右するものになった。私はこう思った。もしも彼女に嫉妬する気持ちを持ってしまったら、彼女の歌を聴くことが辛くなり、その喜びを自ら否定することになってしまう。一方で、彼女がやっていることに降参して、ただそれを愛することに徹するなら、彼女を溺愛するファンの一人として相応な立場に身を置くことができる。そうすれば、もしかしたら、本当にもしかしたら、彼女と一緒に歌うことだってできるかもしれない。

私は降参することにした。

出典・翻訳:同上

リンダとエミルーの友情はこの時から始まった。それから半年後、グラムは、ドラッグの過剰摂取であっけなく逝ってしまう。

グラムの死の知らせを聞いたのは、どこかツアーに出ている時だった。すぐに気になったのは、エミーのことだった。彼女とグラムの間にどんな絆があったのか正確には分からなかったが、それがとても深いものであることは分かっていた。二人が一緒に歌う姿を見た人なら、誰だってそれを疑いはしなかっただろう。

彼女に電話をしてみると、その声から打ちひしがれていることが感じられた。私は「ロサンゼルスに来て少し一緒に過ごさない?」と聞いてみた。

出典・翻訳:同上

この時、リンダは、新しく出来たクラブ「ロキシー」への出演を控えていた。そのコンサートのステージにエミルーを誘うことで、彼女がソロとしてやっていこうと思うきっかけになればと思って声を掛けたという。二人は、一緒に歌える曲として、ハンク・ウィリアムスの「Honky Tonkin'」と「I Can't Help It (If I'm Still in Love with You)」、そして、エミルーがリンダに教えてくれたという「The Sweetest Gift」を演奏したという。

この1年半あまり後の75年、エミルー・ハリスは、リンダやバーニー・レドンも参加したアルバム『Pieces of the Sky』でメジャー・ソロデビューを果たす。そこには、彼女がグラムと共に歌っていたマール・ハガードやエヴァリーブラザーズの曲が収められていた。さらに、同じ年の暮れに発表された2作目『Elite Hotel』には、グラム・パーソンズがブリトーズ時代に歌っていたバック・オーウェンズの「Together Again」に加え、3曲のグラム作品が収められていた。

冒頭に書いたように、カントリーロックは決してグラム・パーソンズひとりが作り上げたものではない。しかし、彼の死は、この種の音楽が「カントリーロック」と呼ばれていた時代の終焉のきっかけになったのかもしれない。「カントリーロック」という言葉には、「フュージョン」とか「クロスオーバー」などと同様、まだ「実験中」のような響きを感じる。グラムやリンダ、ポコ、イーグルスらが70年前後に追及していたこの種の音楽は、グラムの死を経て、より成熟したアメリカン・ミュージックへと枝葉を伸ばしながら発展していったのではないだろうか。

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