【追悼】 クリス・クリストファーソン ─ アウトローの祈り
クリス・クリストファーソンが亡くなった。2024年9月28日、享年88歳。近年の彼の動向についてはあまりフォローしていなかったのだが、年齢的には長生きと言っていいのではないだろうか。冥福を祈りたい。
クリストファーソン(本来、発音的には「クリストファスン」の方が近い)は、ここ日本では「映画『スター誕生』や『コンボイ』で主演した俳優」、「リタ・クーリッジの元旦那」、あるいは「ジャニス・ジョプリンの遺作ヒット『Me and Bobby McGee』の作者」といった認識が一般的だろう。訃報を伝える一般ニュース記事には、「米国の伝説的カントリーシンガー・ソングライター」とか「カントリー&ウェスタンの大御所」と言った形容も見られた。しかし、「伝説的」とか「大御所」といった表現は少し違うように思う。そんな言葉が出てくること自体、特にここ日本においては、彼の音楽がきちんと認識されていなかった証拠ではないだろうか。
かく言う私も、クリストファーソンの曲を最初に意識したのは、彼自身の歌でではなかった。カントリーミュージックを意識し始めた中2か中3年当時、ラジオからカセットに何曲か録音したウィリー・ネルソンの最新アルバムがクリストファソン楽曲のカバー集『Sings Kristofferson』(『クリス・クリストファスンを歌う』、1979年)だった。「Me and Bobby McGee」を聞いたのも、ジャニスのバージョンではなく、このウィリーのバージョンが最初だった。歌詞の意味などまだよくわかっていなかったが、そのアルバムで歌われている曲はなぜか心に沁みた。まだ吸収力の高い、多感な時期だったせいもあるだろう。しかし、それから40年もの歳月を経て、いまだに土臭いアメリカの音楽を愛している自分を考えれば、そのアルバムの楽曲が自分の音楽嗜好の血肉の一部になったと言えるかもしれない。
クリストファーソン自身の歌を聞いたのは、それから何年か経ってからだった。ウィリー・ネルソンは、ライブアルバムなどでもクリストファーソンの曲を取り上げていたし、彼が『コンボイ』や『スター誕生』といった映画に俳優として出演していたこともその頃までに認識していたので、当然興味の対象ではあった。しかし、彼自身の曲がラジオで取り上げられるといったことは、当時ほとんどなかった。
中古レコードで最初に買ったのは『Shake Hands with the Devil』(1979年)というアルバムだった。しかし、少しロック/ポップ寄りのそのアルバムは、ほとんど私の心に響かなかった。元来彼はシンガーとして決して上手いタイプではないし、彼のダミ声はそういったポップなプロダクションとは相性が悪かったのだろう。結局、そのレコードはその後手放したが、今回改めて調べてみたところ、このアルバムはポップチャートにもカントリーチャートにもランクされることなく、一般的にも失敗作とみなされているようだ。
彼のソロアルバムは当時の日本ではあまり流通していなかったし、結局、90年代にCDで再発されたベスト盤を買っただけだが、正直なところ、彼自身が歌う曲はさほど私には響かなかった。その理由を考えると、ひとつは、やはり彼のダミ声、そして、もうひとつ、特に、名曲の多い初期のアルバムに関して言うと、プロダクションが凡庸だったせいもある。
クリストファーソンは60年代にナッシュビルでソングライターとして下積みを重ねてきた人だ。それゆえ、70年にソロデビューして以降数枚のアルバムは、ナッシュビルのスタジオ・ミュージシャンをバックに制作されている。しかし、時にストリングスや女性コーラス隊を配したプロダクションは、当時の典型的なナッシュビルの「仕事」という音で、彼の素の良さが殺されてしまっている感がある。70年代半ばには、妻となったリタ・クーリッジのプロデューサーだったデイヴィッド・アンダールが制作に携わるようになるが、ここでもクリストファーソンという素材の良さが活かしきれていない印象がある。ウィリー・ネルソンや一時期のウェイロン・ジェニングスのような息のあったバックバンドが付いていなかったことも一因かもしれない。「90年代にドン・ウォズあたりと組めば面白かったかも」と私の中で勝手にイメージしていたのだが、調べてみると、実際、95年にはウォズと、また99年には、やはりベテランの味を引き出すプロダクションを得意としていたフレッド・モリンと組んでセルフカバーのアルバムも出していたようだ。
それにしても、ウィリー・ネルソンの歌を通してとは言え、クリストファーソンの楽曲が私の心に響いたのはなぜだったのだろう。改めて考えてみた。至った結論は、彼の曲に、ある種のゴスペル的ニュアンスを感じたからということ。元々私は、ゴスペル的なコード進行に弱い(共鳴する)。わかりやすい例で言えば、ビートルズの「Let It Be」やサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」、ザ・バンドの「The Weight」など。また、小学生時代にオリビア・ニュートンジョンのバージョンで泣きそうになった「Take Me Home, Country Road」や、初期ジャクソン・ブラウン、エリック・カズの曲にもゴスペル的なコード進行が見られた。クリス・クリストファーソンの場合、必ずしもゴスペルのコード進行というわけではないが、そこに何かしらのゴスペル的ニュアンスを感じたのだと思う。それは「祈り」とも言えるかもしれない。真に「伝説的」なカントリーシンガー、ハンク・ウィリアムスの楽曲に喩えるなら、「Jambalaya」や「Hey, Good Lookin'」ではなく、「I Saw the Light」や「I’m So Lonesome I Could Cry」に通じるものだ。
もうひとつの理由は、彼の曲にアウトローの雰囲気が漂っていたこと。歌詞の意味などまだよくわかっていない中学生がアウトローの歌と頭で認識できたわけではない。それに通じる「埃っぽさ」のようなものを感じたのだと思う。クリストファーソン自身にそういう資質があったからこそ、映画『Pat Garrett and Billy the Kid』(『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』1973年)で、そのものずばりの伝説のアウトロー、ビリー・ザ・キッド役に抜擢されたのだろうし、その後の『コンボイ』や『スター誕生』でも、アウトロー的な配役を与えられたのだろう。
その点、彼の初期の歌は、「アウトローの祈り」とでも言えるものだった。そのものズバリなのが、彼にとって最大のヒット「Why Me」(1973年、ビルボードポップチャート16位、カントリーチャート1位)だ。「主、イエスよ お救いください。私は人生を無駄に過ごしてきました」と歌われるこの曲は、失意の中で彼が教会を訪れた体験に基づくと言われているが、これはまさに無法者の懺悔の歌だ。
クリストファーソンはテキサス州のメキシコ湾岸の町、ブラウンズヴィルの生まれ。父親は空軍少将だった。クリスも陸軍に入隊してヘリコプターパイロットになったが、学生時代は文学を学んでローズ奨学制度で英オックスフォード大学に留学するほど優秀だったようだ。陸軍時代にウェストポイント士官学校で文学の教官に任命されたが、ソングライターになる夢を捨てきれず、ナッシュビルに向かったのが1965年。ナッシュビルでは、コロンビア・レコードのスタジオで清掃作業員の仕事をしながら、曲作りと曲の売り込みに励んだという。それまでエリートコースを歩んできた彼が何もかもを捨てて自分の道を行くには、かなりの逆風もあっただろう(最初の妻ともまもなく離婚している)。副業としてヘリコプターパイロットの仕事もしながら、ナッシュビルとルイジアナの間を行ったり来たりしていた、そんな時代に書かれた曲のひとつが「Me and Bobby McGee」だ。
ヒッチハイクで旅を続ける主人公が「Freedom's just another word for nothin' left to lose」(「自由」ってのは、失うものが何もないってことさ)と歌うこの曲は、10代後半〜20代の私にとってテーマ(課題)曲のようなものだった。そのことは以前の記事(下記)で触れたが、私の生き方に一定の影響を与えたそのフレーズは、クリストファーソンが本来持っていた文才と彼の実体験があってこそ生まれたものだろう。
とは言え、ソングライターとしてのクリストファーソンのアプローチは、ボブ・ディランら、60年代にグリニッジヴィレッジに出入りしていたフォーク系譜の人たちとも、70年前後のLAで開花したローレル・キャニオン周辺のシンガー・ソングライターたちとも一味違う。そういったフォークシンガーやシンガー・ソングライターたちには自分の思いのままを歌にできるような土壌がある程度あったと思うが、ナッシュビルというカントリーミュージック産業の底辺にいたクリストファーソンの場合、当然「売れる」ことも意識しなければならなかっただろう。他の人が思いつかないような言葉の組み合わせを選びながら、多くの人が「自分ごと」として共感できるものを作り上げる。職業作家とシンガー・ソングライターの間の、その微妙な塩梅が一定のアメリカ人、特に多くのミュージシャンたちの心に響いたのではないだろうか。
クリストファーソンはどちらかと言えば、ミュージシャンズ・ミュージシャンだった。彼自身は、必ずしも音楽家として大成したわけではない。映画に軸足を移したこともあって、ソロ作品ではこれといったヒットにも恵まれなかった。「カントリー&ウェスタンの大御所」とか「伝説的」とかいった形容に私が違和感を覚えるのは、そのためだ。リタ・クーリッジとのデュエット・アルバム『Full Moon』(1973年)収録の「From the Bottle to the Bottom」という曲でグラミー賞の「最優秀カントリー・ヴォーカル・パフォーマンス(デュオまたはグループ)」こそ受賞しているが、そのアルバムもリタの雰囲気に寄り添ったような作品で、クリストファーソン自身の個性が強く感じられるものではなかった。
リタ・クーリッジは、自身の自伝『Delita Lady—A Memoir』の中で次のように語っている。
クリスとリタが出会ったのは、1971年。LAからメンフィスに向かう飛行機でたまたま乗り合わせたのがきっかけだった。英語で一目惚れのことを「love at first sight」と言うが、リタ曰く、二人は「love at first flight」(初飛行で恋に落ちた)という。その後暫くして、クリスは映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』の撮影でメキシコのデュランゴに向かうが、彼はそのロケにリタを呼び寄せ、関係者に「お前らがリタを帰らすんだったら、俺も帰る!」と息巻くほどだったという。サム・ペキンパー監督のこの映画は、ボブ・ディランが下手な演技で出演したり、挿入歌として名曲「Knockin' On Heaven's Door」を生んだ作品だが、リタも、結果的にクリス演じるビリー・ザ・キッドの恋人役で出演。ふたりのベッドシーンまで見られる。
私がクリス・クリストファーソンのステージを観たのは一度。と言っても、彼単独のコンサートではなく、ウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェンングス、ジョニー・キャッシュと4人で組んだ「ザ・ハイウェイメン」としてのステージだった。時は1993年5月、場所はニューヨークのセントラル・パークで、午後3時からの野外コンサート。ラジオシティ・ミュージック・ホール主催で2週間近くにわたって繰り広げられた「Coutnry Takes Manhattan」というコンサート・シリーズのトリを飾るイベントだった。
ウィリー以外の3人を見るのはこの時初めてだったので、そういう意味では興奮したが、コンサートそのものにさほど強烈な印象は残っていない。それぞれ全盛を過ぎていた4人がそれぞれの持ち歌を歌い廻すこの種のプロジェクトにさほどスリルは感じなかったし、70年代半ばの全盛の頃に観れたらという若干の寂しさもあった。そんなわけで、クリストファーソンがどんな曲を歌ったか、残念ながらあまり憶えていない。
しかし、4人の絆の深さは感じた。4人の中ではジョニー・キャッシュが60年代にいち早くスターになっていたが、他の3人はナッシュビルでの貧しいソングライター時代を共にした「戦友」とも言える仲。そして、ウィリーとウェイロンは、70年代にナッシュビルの音楽ビジネスに反旗を翻す形で、オースティンに移ってアウトロー・カントリー・ムーブメントを起こした仲。同じ頃、クリストファーソンは、スクリーンを通じてアウトローのイメージを増幅していた。
1979年にウィリー・ネルソンがクリストファーソンの曲を集めたアルバムを出したのは、その当時、音楽的にはさしたる成功を収めていなかった盟友の曲の素晴らしさに、今一度光を当てたい思いがあったのではないだろうか。クリスの歌に感じられた「アウトローの祈り」──それはアウトロー・カントリーを牽引してきたウィリーにとっても大いに共感できるものだったはずだ。ウィリーがアルバム『Sings Kristofferson』で取り上げた「Sunday Mornin' Comin' Down」も、世間から取り残され男の祈りを強く感じる曲だ。1970年にジョニー・キャッシュが歌ってカントリーチャートでNo.1ヒットとなったこの曲はクリストファーソンの代表曲のひとつだが、いかにもナッシュビル的なアレンジのキャッシュ・バージョンより、ウィリー・バージョンの方が曲本来の味わいが感じられる。
アウトローの「祈り」は、時にアウトローの「ブルース」とも感じられた。この場合、音楽のスタイルとしてのブルースではない。辛さから逃れる手段としてのブルースだ。「どうにでもなれ」という気持ちと言ってもいいだろう。別のクリストファーソンの代表曲で、女性カントリーシンガーのサミー・スミスがNo.1ヒットさせた「Help Me Make It Through the Night」は、そんな曲だ。女性視点で歌うとニュアンスが異なってくるが、この曲はウィリーも歌っているし、プレイボーイとして鳴らしたクリストファーソンをイメージして聞くと、彼の色気とともに寂しい男の姿も見てとれる。
この曲を含め、彼の曲には「devil」という単語がよく出てくる。そこには何かしら原罪のようなものを背負った、そんな姿が見える。この曲の主人公も、全てを忘れて快楽に身を任せたいという、それこそ原罪のようなものを背負っているかに見える。自身の歌を通して、そして、その容姿からも、アウトローのイメージを発散させていたクリス・クリストファーソン。しかし、「Sunday Mornin' Comin' Down」のような繊細な情景描写から、彼が単に粗野なだけのアウトローだったとは思えない。それどころか、彼の生まれ育ちを考えれば、もしかするとクリストファーソンは、その生涯の大部分を通してアウトローを演じていただけだったのかもしれない。リタ・クーリッジの自伝にも、そんなことを思わせる言葉が綴られていた。
自らが背負った「アウトロー」という虚像ゆえに、本当に信頼できる人にしか純真な感情を見せられなかった。クリス・クリストファーソンの人生は、もしかしたらそんな人生だったのかもしれない。
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