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ニューオリンズ紀行 1987

前回の記事で取り上げたジミー・バフェット新作のオープニング曲「University of Bourbon Street」がニューオリンズの風景を描いていたことに動機づけられて、自分自身がそこを訪れた時のアルバムを引っ張り出してみた。その時のことを写真とともに憶えている範囲で記してみたい。

ニューオリンズには特に具体的に思い入れのある場所があるわけではなかったが、アメリカ音楽の聖地を巡る旅ではやはり外せない土地だ。時は1987年3月。テネシー州ナッシュビルからミシシッピ州を斜めに縦断する形で南下してニューオリンズに入った。午後2時か3時頃だったと思う。写真を見るとその日はどんよりとした曇り空。結構な湿気だったことと、3月にもかかわらずスコールのような激しい夕立が降ったはことは憶えている。ちょうど「マルディグラ」のお祭りの余韻が少し残っているような時期だった。当然ながら、まず向かったのはフランス統治時代の街並みを残す地区「フレンチクォーター」。当時の自分としてはちょっと贅沢をして、この地区にあるフランス風の趣きを残すビアンヴィルハウスというところに宿を取った(当然飛び込み)。アルバムに挟んであったレシートを見ると55ドルだった。

宿泊した「Bienville House Hotel

夕方になってフレンチクォーター界隈を歩き出す。コロニアル様式のバルコニーのある建物が他のアメリカの街にはない独特の趣き。異国情緒が漂う。通りのあちこちにミュージシャンやパントマイムなどのストリートパフォーマーがいるし、まだ明るいというのにレストランやバーの開け放った窓からさまざまな音楽が聞こえてくる。本場のニューオリンズジャズあり、ブルースあり、ファンクっぽい音楽あり。観光都市なので当然かもしれないが、このエリア自体がミュージック・テーマパークという感じだ。かつてはフランスやスペインの植民地で、西アフリカから多数の奴隷が連れてこられた港町だけあって、あらゆるものが混在している様子。この地の名物料理であるガンボ同様、「ごった煮」という形容がぴったりだった。その当時はニューオリンズルーツの音楽についてさほど詳しく知らなかったが、ケイジャンやザディコ、それにブードゥー的なバックグラウンドを持つ音、そういったもの全てを受け入れる、あるいは育んだ土壌がここにあることが今になってみればよくわかる気がする。そんな独特の空気感があった。そして、その空気はとても湿度の高いものだった。

ストリートミュージシャンたち。音は憶えていないが、ジャグバンドと思われる。

料理もそんな雰囲気だった。この一連のひとり旅での食事は基本的に質素倹約を重んじていたのだが、この地の料理の魅力には勝てず、やはりちょっと贅沢してしまった。その夜に食べたのはジャンバラヤ。カーペンターズや多くの米国のミュージシャンがカバーしている、ハンク・ウィリアムスの同名曲で歌われたクレオール料理だ。ここへ来るまで暫くお米を食べていないこともあって、魚介風味のトマトソースの炊き込みご飯が身に沁みた。どんなレストランだったかは記録にも記憶にも残っていないが、料理の写真だけはしっかり撮っていたようだ。

ジャンバラヤ。魚介風味のトマト炊き込みご飯といったところ。

夕食を終えると「プリザベーションホール」に向かった。プリザベーションホールというのは、伝統音楽を保存(プリザベーション)する主旨で、伝統的なニューオリンズジャズの演奏を聞かせるコンサートホールだ。コンサートホールと言っても、30〜40人くらいしか入れないような非常に狭い小屋のようなところで、飲み物の提供もない。背もたれのない長椅子に座ったり、床に座りこんだりして、ただ演奏を聞くだけ。建物自体はフレンチクォーターで最古の建物のひとつだという。敢えてそのまま維持しているのだろうが、かなりおんぼろな建物だった。下の映像は2010年頃のもののようだが、当時も同じような雰囲気だった。


2日目は青空が覗いた。朝、まだ人通りの少ないフレンチクォーターを歩いていると、アコースティックギターの弾き語りをしている背の高い長髪の青年がいた。1987年というMTV全盛の時代に70年代初頭のシンガーソングライターのような出立ち(今写真で見ると『Merrimack County』(1972)の頃のトム・ラッシュのような雰囲気)だ。しかも、演奏している曲がジェイムス・テイラーの「Fire and Rain」。他にも数曲のJT作品や、ニューオリンズらしく「Mr. Bojangles」も演っていたような気もする(思い込みかもしれない)。

私が「ニューオリンズのジェイムス・テイラー」と名付けたストリートミュージシャン

これは心に沁みた。今でこそ日本でもあちこちの駅前や駅ナカで路上ライブが行われているが、87年当時の日本にそんな人はほとんどいなかったし、ましてや打ち込み音楽全盛のあのバブル時代に生ギター片手に歌うなど、時代錯誤とバカにされかねなかった。そんな中、この光景は神々しいものに見えた。今にして思えば、ジョニ・ミッチェルが「For Free」で歌ったような世界だったかもしれない。歩道の縁石に座り込んでしばらくの間、この「ニューオリンズのジェイムス・テイラー」の歌に聞き惚れていた。実際のところ、彼の歌は録音もしたはずだ。この旅には録音機能付きのウォークマン(ソニーのものではなかったが)を持って行ったので、ところどころで現地の生音を録音していた。他にもナッシュビルのライブハウスでの演奏なども録音したが、残念ながら、そのカセットテープは後年私が長年実家を離れていた間に処分されてしまっていた。(ここでは代わりにトム・ラッシュの歌うJT作品「Sweet Baby James」をどうぞ)

ジミー・バフェットもデビュー前の若い時期はニューオリンズのストリートミュージシャンだったというが、このニューオリンズのジェイムス・テイラーはその後どうなっただろう。

そうこうしているうちに昼時になり、レストランに入った。レストランと言っても中央にカウンターがあるバーのようなところで、天井にはファンがぐるんぐるんと回っていた。まだお昼には少し早かったのか、他にお客はほとんどいなかったように記憶している。そこで頼んだのは、やはりニューオリンズ名物の「ガンボ」。ドクター・ジョンの72年のアルバムのタイトルにもなっている魚介のトマト煮込みのようなものを白いご飯の上に掛けて食べる料理だ。これも美味しかった。

ガンボ

この日は、外輪船が見えるミシシッピ川沿いを歩き、その後、川沿いのマーケットプレイスのようなところで生ガキも食べている。先のランチとの時間軸があやふやなのだが、おそらくおやつのような感じで食べたのではないかと思う。カクテルソースやレモンを絞って食べるタイプの生オイスターはその後好物になったが、それを食したのはこの時が初めてだったかもしれない。

ニューオリンズの生ガキ

その後ぶらぶら歩いてフレンチクォーターのホテル前の駐車場に止めていた車に戻り、当時はまだ珍しかった屋根付きスタジアムの「スーパードーム」(東京ドームの開場は1988年)を横目に西に向かい、市街から西に20キロほどのラ・プレイスという地区にあるモーテルに投宿した。このエリアを今地図で見ると、スワンプ地帯の真っ只中という感じだ。なぜそこに泊まったのかは全く憶えていない。おそらく、ただハイウェイ沿いに安そうなモーテルがあったからだろう。

アルバムの時系列写真を見ると、翌朝また東の方に戻っている。ニューオリンズの北に広がる大きな湖・ポンチャートレイン湖のど真ん中をぶち抜く全長38km超の「レイク・ポンチャートレイン・コーズウェイ」を走りたかったからだ。今思えば、この橋を明るい時間に走りたかったがニューオリンズ市内にもう1泊するのは高いので、一旦近隣の村で泊まることにしたのだろう。

水平線まで真っ直ぐに続く レイク・ポンチャートレイン・コーズウェイ

橋を渡り切るのにおそらく数十分掛かっただろう。南から北へ渡り切ると、今度はインターステイトハイウェイ12を西に、バトンルージュ方面に向かった。バトンルージュはルイジアナ州の州都で、日本ではこの後(1992年)「『Freeze』を『Please』で聞き違えたのでは?」として話題になった日本人留学生射殺事件が起こったことで有名になった町だ。しかし、その時の私にとっては、ジャニス・ジョプリンの遺作ヒットとなった、クリス・クリストファソンの曲「Me and Bobby McGee」の歌詞の冒頭に出てくる地名として見ておきたいところだった。この曲のサビ部分の「Freedom's just another word for nothin' left to lose」(自由とは、失うものが何もないのと同じこと)というフレーズは、ティーンエイジャーから20代の頃の私自身にとって一種の課題曲のようなものだった。

Me and Bobby McGee

バトンルージュで金が底をついた
列車を待っていたんだけどな
まるで俺のジーンズのように色あせた気分だ
幸い雨が降る直前に ボビーがトラックを掴まえてくれた
おかげでニューオリンズまでたどり着けたぜ

俺は汚れた赤いバンダナからハーモニカを取り出し
ボビーがブルースを歌う間 悲しげに吹いていた
ワイパーがタイムを刻み ボビーが手拍子
ドライバーが知っていた曲はすべて歌い上げた

自由とは 失うものが何もないのと同じこと
何もなければ価値もない でもそれが自由だ
簡単に気分よくなれたさ ボビーがブルースを歌ってくれれば
気分よくなれれば それで十分だった
俺とボビー・マギーは

Written by Kris Kristofferson, Fred Foster; translation by Lonesome Cowboy


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