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#22 石

 憎しみ、妬み、嫉み、蔑み、哀切、悲嘆、怨嗟、罪悪感、劣等感・・・といった人の心の中に宿る負のエネルギーは、いつの時代も、物語における大きな要素になってきた。

 最近読んだ村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』という連作のうちで、憎しみの言葉は、感情は「石」になる、だから人を憎むなという旨の表現を見かけた。嫌いなものを、人を直視し、分析し、それを怒りや憎しみと共に凝視することは、たしかに少しずつ、鬱積する嫌なものがある。それは心の中に蓄えられてゆく負の力であり、着実に精神を蝕む毒である。それは石のように確かな感触で、しこりのような現実存在なのだ。

 そして、「石」は、物質的にも容易な質量である。石器時代という時代が実在したように、石は手に取って使い易いツールなのだ。それは太古の昔、狩りや採集に使われる、生を支える基盤であったが、石を最早使わない近年、それはある面では暴力を思わせる印象となった。

 死体トラックの作業員に石を投げつけるのは、家のない人々にとって日常的な時間つぶしなのです。作業員たちが武器を持っていて、群衆にマシンガンを向けるのも辞さないことはみんな知っています。でも石を投げる者たちの中には、身を隠すことに長けた連中がいて、投げたらすぐ逃げるという戦術を駆使して、回収作業を全面的混乱に陥らせてしまうこともよくあります。こうした攻撃の背後に、何ら筋の通った動機は存在しません。それは怒りと、憤りと、退屈から生じた行為であり、街なかに姿を見せる市の役人は回収作業員しかいないために勢い彼らが格好の標的になるというだけの話なのです。死ぬまでは何もしてくれない政府に対する市民の憎悪を石は表している。石は不幸の表現なのです。それだけのことです。なぜならこの街には、もはや政治などというものは存在しないのです。そんなものに構うには、あまりに空腹であり、あまりに心がすさんでいて、あまりにたがいがいがみ合っているのです。―ポール・オースター『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳)

 オースターのこの小説は、いわゆるディストピアという、荒廃した世界が描かれている。この引用の一節だけでわかるように、全てのものが不安定で、誰もが空白とか死とかいったものに隣り合わせな世界。そのうちに「石」は、やはり象徴なのだ。石は不幸の表現。石は憎悪と憤りの鏃なのだ。

 

 文学の世界では、このように何気ない物でさえ何かを背負わされている。石に潜むこうした負のコード(記号)が、日常生活で役立つことはまずないだろう。しかし、こうした景物の意味の多様さを知っておくことは、文学の効用だろう。僕たちは、意味のある世界を生きているのではなくて、むしろ世界から意味を抽出しながら生きなければならないだろう。その手段を、抽斗を、文学は与えてくれるかもしれない。