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肯定するでもなく、あること

否定しない、と言ったが肯定する必要があるわけではない。否定しないことの裏を見る。否定しなければ、様々な対応の仕方がある。ちょっと触れてみる。あるいは、じっと向き合ってみる。わからなくても、受け入れられなくてもいい。ただ、それがそこにある。と認めていればいい。

生き生きとしていること、とつながる。実際に起きていること、存在することに対して素直に反応することがそうだった。素直であるだけでいい。何も無理して肯定しなくていい。おそらく、ありのままであることを突き詰めれば、肯定も否定もなくなる。

事実をもとにして書くのが、エッセイだといわれる。あまり、身の回りに起こったことは書かない。しかし、心の中で起こったことも「事実」として認めるなら、わたしはエッセイを書きたい。

そうであるためには、心を見つめなくてはならない。心をとともにいなくてはいけない。書きながら考えるだけでは足りない。書きながら感じなくてはならない。書きながら、思わなくてはならない。書きながら生きていなくてはならない。

その時に起こったことを受け入れるために、「良い」も「悪い」もない「普通」が欲しかった。もうすでにあるのだから、「あるべきもの」など語っても仕方がない。「これがダメだ」などと語っても、何も生まれない。だから、心を受け止めてすぐにするべきなのは、「そうだよね」とただうなずくことなのだ。

それが、「肯定」の最も基本的な形ではないだろうか。「肯定」というと、味方につくとか、それとともに責任を背負うとか重々しい意味合いが連想される時がある。しかし、一番初めの「肯定」は覚悟も何もいらない、うなずきぐらいの意味だっただろう。もうそこにあるのだから、認めるしかない。覚悟したぐらいで決められることではない。

むしろ、肯定することから、「良い」も「悪い」も生まれる。

肯定しなければ何も語れないし、それに反対しようとしても反対する対象が「ある」と認めなければ何もできない。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!