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揺曳

 交通整備の赤い誘導棒が遠い闇に揺れていた。何かが呼吸する。暮れゆく都市の、無数の箱たち。呼吸した。夜の予感が隙間風のようにガラス戸を浸潤する。また何者にもなれないまま、秋がやってくる。それは悲しみというにはあまりに浅く、後悔というにはあまりに遅い。おれたちは時間という速度の中で公転する。おれたちの球面の上には、名状しがたいどぶ色の感情の星雲が渦巻く。雲を突き抜ける強さもなければ、爆発する度胸もないので、球体は死ぬのを先送りにしている。なんて情けないのだろう。

 まわる、歴史はまわる。人間はまわる。経験のくり返し。それは挫折の、傷のくり返し。はかない輪廻のなかで、悟ったような無知で澄まして。まわる。洗濯物はまわる。コインランドリーは、宵闇にはっきりと無菌室のような明るさで領域を主張していた。洗濯物がまわる。洗濯物は、干されて、着られて、またまわされるのだろう。そこだけが明るい空間の中で、それぞれ回転する色とりどりの服飾たち。

 無菌室を出て、川沿いをそぞろ歩いた。夜の闇の中で、灯りだけが行き先を持つ。闇はやさしい。特に行き先をもたぬ者には。あしもとには黒い川が流れている。過去から流れて、未来へと。そこに現在は”存在しない”。煙草につけた火は、いつもより明るく見えた気がした。おれの吐きだした煙は、見えなくなるまで見えていた。