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触れないこと、触れそこなうこと―絲山秋子『海の仙人』

 宝くじに当選したら、どうしようか? 他言してはいけない、とか、会社を辞めてはいけない、というのはよく言われる。この物語の主人公は、一つ目をほぼ守り、二つ目を大胆に破る。そのせいかはわからないが、物語のさなか、恋人に死なれたり、落雷に撃たれたり、手ひどく痛めつけられる。

 デパートで働く河野は宝くじで1等が当たり、会社を辞め、海の美しい敦賀で悠々自適の暮らしを謳歌している。そこにあたかも旧友のごとく自然さで「ファンタジー」と名乗る役に立たない神様が現れ、彼に恋する2人の女性が登場し、月日が巡る物語である。ファンタジーはある意味霊的なのだが、物語に直接干渉するような超自然的な力を行使することはない。非常に精妙なキャラクター設定である。

 主人公・河野は二つの恋愛を同時に経験するが、その中で浮き彫りになるのは彼の生い立ちの異常性である。幼少期の傷が、成長してからの不能となり、その不能を見つめるうちに、愛していた人を失ってしまうというすれ違いは、確かにせつなげである。この物語の主題は「孤独」であり、「愛」、であり、「不能」であり、「屈託」であった。その主題の散逸が、散漫たる印象へつながっている。

 物語自体は、掴みどころがなく、設定自体もそうだったが、荒唐無稽という印象が拭えなかった。大江健三郎『芽むしり』の後に読んだのが悪かったかもしれない。

 新潮文庫版の解説も、ほとんど読むに値しない著者への追従だが、一つだけ光るところがあったので以下に引く。

 触れてしまうことの簡単さを超えたところにある結びつきの、深さ、強さ、豊かさも、本作では一つのモチーフになっている。

絲山秋子『海の仙人』(新潮文庫,169-170頁。)

 確かに、主人公・河野は「触れる」ことを最後まで避けようとする。人間と正面からぶつからず、自らに恋する2人の女性のもとへ、基本的に自ら赴かず、待ちの姿勢を貫いている。彼自身、「仙人」として俗世に馴染まず、人心に触れないことを第一とする。この物語は、「触れそこなう」物語であり、それ故に決定的な場面は訪れない。

 触れる、とは無条件に安易なことだ。それゆえに、素晴らしいことでもある。ごちゃごちゃ考え、理屈や言辞を並べ立てるより、触れてしまえば「愛する」ことも、「傷つける」こともできよう。しかし、我々読書者は、そこで常に考え、距離を取り、その感覚性に対して一定の批判を与えなくてはならない、ということを思い出さなくてはならない。その批判の上に、初めて誰かに、誰かの魂にむかって「触れる」ことが可能になるのではないだろうか。


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