人が認識をした時の情報の形。
シェルピンスキーのギャスケットという図形があります。
これは三角形の中に三角形があり、そしてその中に三角形があり、そしてその中に…
という事が永遠に続いている図形です。
(この説明で合ってるかはわかりません)
この図形は、自分の中では、脳が情報を処理した時の形に似ているようで、好きな図形です。
人間は数を使います。
数とは、同じと解釈できるものを均等に寸断して出来上がるものです。
水は数えられませんが、コップに入れば、最低でも「1つの水」と数える事が出来る訳です。
水というものをコップという「均等なもの」に「寸断」したわけです。
ですが、水をクソデカい土地に放って水没させたなら、それは「池」とか、「ダム」といった均等なものに寸断される事もあると思います。(あんまりいい例えでは無いですね、ごめんなさい)
また、逆に水をスポイトで取り、一滴落としたなら、それは「水滴」という寸断のされ方をします。
人は、どこか均等に感じる瞬間を狙って、いつも寸断しているのです。
外を見て、空があり、家があって、道がある。
空と家と道を寸断せずに見る事は絶対にできません。
なぜなら、それを寸断しないで見たとしたら、「景色」というような形で寸断されてしまうからです。
もちろん、その景色の中には、空も家も道もある訳です。
そして、空の中には雲があり、青い大気があり、鳥がいます。
家にも、屋根、窓、壁。
道にも、草、アスファルト、土。
まるでシェルピンスキーのギャスケットのように、物の中に物があり続けます。
ですが、人間には知覚の限界があります。
空を見上げた先の膨大な宇宙は見えないですし、虫に寄生したカビの事は知る由もありません。
もちろん、機械などといった英知を用いれば、もっと深くフォーカスしたり、遠く俯瞰できたりしますが。
僕は、どうにも、考える事が好きすぎて、その知覚の限界に近づいてしまう事が多々ありました。
自分の服を選ぶ時、微妙なでっぱりとか、服のシワとか、そういうものが見えすぎてしまって、俯瞰できないから、服の事が嫌いでした。(今はどうでもいいと思ってる)
人の顔を見る事も難しいです。
人の目の動きや、肌のシワ、口の開き方とか、唾液を嚥下する音に気を取られて、顔を見ると猶更会話できません。
そんな風に、自分はどうにもフォーカス癖があるようです。
なので、そういう時は一旦シェルピンスキーのギャスケットの事を思い出して、「全体をふんわりと見る」という事を心がけています。
何も見るだけにも限らず、「自分はこうありたい」とか、「こういう記事を書きたい」みたいな事を、フォーカスし過ぎると、本当に本が何冊も書けるような文章量になるかもしれないし、相当疲れると思うので、「こうなっていれば、ひとまずは良い」という風に、ふんわりと、緩く考えてます。
別に変な文章になってても、次気を付けたら良い。
完成という所で、寸断してしまった後は、なるべく手を付けないとか。
色んな所でシェルピンスキーのギャスケットが活用できると僕は思ってます。
いかがですか?
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