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普通になりたかった私、特別になりたかった私

子どもの頃から、人に注目されたい気持ちが強かった。

幼稚園の頃、将来の夢は『アイドルになりたい』だった。
小学校のときは、ローカルテレビ局で放映してた『アイドル天使ようこそようこ』というアニメを見て、主人公のアイドルの女の子が「ようこの『よう』は太陽の『陽』!」って決めゼリフから、自分の名前が『陽子』だったらよかったのに!!と本気で思っていた。

小中高と生徒会に入ってみたり。だって、なんか特別な感じがするから。これも漫画『天使なんかじゃない』の影響な気がする。
何なら、高校で新聞局があるのを見つけて入ったのは、アメリカドラマ『ビバリーヒルズ高校白書』の影響で。

テレビや漫画の中で見るキラキラした世界に憧れて、素敵!と真似してみる。
現実は、全然キラキラしてないのだけど、その枠の中に入ってしまえば、その役割の中でやるべきことをやってるだけで、そこに居る理由、そこに居ていい理由ができた。

10代を過ぎるまでは、他の人がどう思おうが、ほとんど気にならなかった。とにかく、自分を見てほしい。自分に目を向けてほしい。でも、どこかで人からの評価を耳にするのを避けていて、自分の教室には居づらかったり、女子グループを避けていたりした。

浮いた存在であっても、自分は特別なんだ!特別になりたい!の気持ちが奥底にあるので、わりと平気だった気がする。平気なふりをしないと仕方がなかっただけかもしれないけど。


最近、「愛着不全」という概念を知って、見ないようにしてたことを振り返られるようになってきた。昔のことを振り返って、当時のつらい気持ちを受け止めるのは、気力も体力も消耗する。

でも、自分の中にぽっかり空いている暗い穴が埋まりそうな予感がしている。無意識のうちに湧いて出てくる、私のことを見て!という、人からうっとうしがられるけど、押さえきれずにどうしようもない思いに、原因があったんだ、と。

まわりになじめず、それが当たり前で、もうどうしようもないまま、自分が特別なんだと思うことにして生きてきたんだと思う。

「愛着不全」を知った今、これまでの自分を見直して受け止めてみたいと思ってる。もしかしたら、普通になりたかった自分が、見つけられるのをひっそり待っているんじゃないかという気がしてる。

どんな自分であれ、自分のまま受け止められるようになれたら、世界の見え方もきっと変わるんだろうな。


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