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「自称○○(障害・病名等)」について思うこと

先日、こんなツイートをした。


障害や病気の名前を自称する人と、それに対する世の中の見解について、最近思っていたことを自分なりの言葉で吐露した。あまり上手い文章とは言えないけれど、今の自分の知識量(とTwitterの文字数制限)ではこれが限界だった。言いたいことはつまり、


A「私多分……○○(病名)なんだよね」
B「お医者さんに何か言われたの?」
A「いや、自分でそう思うだけだけど」


この時のAさんの発言を、疑ってしまったり「なんか嫌だ」と感じたりする気持ちは、分かる。ただそれでも、この後に続くであろうBさんの返事が、Aさんの主張を真っ向から否定するものであってはならないと思う。

ということだ。ちゃんと分かりやすくなった?これ……


最近、医療機関からの診断無しに「障害や病名を自称する人」が増えている気がする。特に多く目にするのは、ADHD(注意欠陥・多動性障害)や自律神経失調症等、所謂「外見での判断が難しい障害や症状」の自称だ。
このような人が出てきた理由には、ネットの普及により障害や病気等に関する情報を得ることが安易になったこと、SNSを通じて似た悩みや困難を抱えた人同士が繋がりを持ちやすくなったことがあると思う。

様々な特性について紹介するサイトを見て「この症状、自分にも当てはまるかも」と感じ取った人が、医者からの診断無しに病名を自称する。行為自体の良し悪しはさておき、この「自称○○」をめぐって様々な意見のぶつかり合いがあるんだなとSNSを見ながら思い、自分にも色々と感じることがあった。

直感的な意見をそのまま書こうと思ったのだが、人の意見を聞いたり色々なことを調べたりする中で、自分の考えそのものが少し変わった。その経緯をここに記しておこうと思う。


【はじめに】ツイートだけでは言葉が足りない



このnoteには、全体を通して「言葉足らずを少しでもマシにしたい」という思いがある。同時にいらんことを言っている気もして、少し怖い。

最初の画像(ツイート)を生み出すのには、多分小一時間くらいを使った。誰かを傷つける言葉になっていないか見直して、これでも何度も書き直した。
※完璧に言い表せたとは思ってない。時間かけたってだけです。

絶対に偏見が入るという理由から病気や障害等のことを提言するというのは今までなるべく避けてきたけれど、「自称○○」をめぐる争いの心地悪さにはずっと思うことがあった。

この文章について誰がどう思うのか、実際のところは分からない。
140字という制限を言い訳にするのもなと思い、こうしてぐるぐる考察した氷山の下の部分をnoteに書き連ねている。まだ不十分だけれど、書き続けたことで自分勝手な思い込みみたいなものはかなり減った。


【呟き前の思考①】そもそもなんで呟きたいと思ったか


「自称○○」について呟きたくなったそもそもの理由は、隠すまでも無く自分が「自称○○」を心の底から嫌だと思っていたからだ。自分の推量で専門用語を自称できてしまうということが、直感的に何だか無神経に感じられて。

スクリーンショット (698)

「なんか分かる」どころでは無かった。本音を言えば大共感。嫌嫌嫌嫌嫌。


自分は、「病名(グレーゾーン)」等の言葉で埋め尽くされたSNSのプロフィール欄を見ると「なんかやだな」と感じていた。同時に、この考えを表出すればかなり多くの人を傷つけるということも想像できる。だから積極的に誰かに相談したことは無いし、今後もしないと思う。

単刀直入に言うと、医学的な根拠無しに専門用語(病名のこと)を使う人を見ると、「ズルいな」と思ってしまうことが多かったのだ。

思うだけで表に出さないようにしていたのは、心のどこかに「何でも思う分には自由でしょ」という考えが薄っすらとあるためで、初めて公の場に表出してみた今、なんかダメなことをしているような感じがして居心地が悪い。
人の状況も知らないで、なんて勝手な意見だろうとは思う。


ただ誰かが傷つくとは分かっていても、どうしても少しだけ頭をよぎってしまう。「病名を使うことで深刻そうにして心配してほしいだけなんじゃないの」という邪推が。

なんでこんなに嫌なのか、なぜズルいなと思ってしまうのかを突き止めたくて、色々と考えるに至ったのがツイートを作る最初のきっかけとなった。呟くより考える方が先だったので、本当はこのnoteがメインで、呟きはただの結果。

言い訳がましいけれど、この項目で書いたものは全て「記事を書く前の自分」のあまりにも未熟な意見であり、考察し続けたことで今は多少なりとも変化している。
それでも、これが紛れもない過去の自分の意見であるということ、そして今も尚、これに共感できる自分がいるという事実も変わらない。

【呟き前の思考②】自称〇〇を嫌う人にも、色々いる

Twitterで検索をかけまくったので分かってきたのだが、自分のように「『自称○○』に嫌悪感を示す人」というのは多分、珍しくない。少し調べただけでも結構いる。そして大きく以下の二つに分けられる。

【自称○○が嫌いな人の種類】
①自称じゃない人=本当にその病気の人・当事者
②辛いけど根拠が無いから自称せず毎日頑張ってる当事者以外の人

こういう断定的な分類ってどうなの、とも思うけれど、主流となるのはこの二つかなと調べながら思ったので、ここでは便宜上2種類に分けさせていただく。便宜上って便利な言葉ですね。

【呟き前の思考③】「自称○○」をイヤと感じてしまうのは、何故なのか

自分の立場、嫌いサイドの意見をかき集めたので紹介する。理由の部分は、いずれも検索して出てきたツイートや周りの友人等に聞きながら集めた言葉たちだ。直接引用はしていないけれど、言葉遣いもニュアンスも、後に記述することのために敢えてそのまま残した。


※チクチク言葉のオンパレードなので、心がつらいという方は太文字以外読み飛ばしてください。本当に。


【自称○○が嫌いな人の意見】
①自称じゃない人=本当にその病気の人・当事者
…「その程度の症状で○○名乗るな」「本当の〇〇の苦労ってのはそんなもんじゃねえ」「自称の人らのせいで世間の誤認識が増えるからやめて(=ネット上で調べた情報だけで判断するな)」「本当に辛いなら病院行け」

②辛いけど自称せず毎日頑張ってる当事者以外の人
…「病名使えば甘やかしてもらえると思ってるの?」「人と話すのが苦手なんて、病気で無くても良くあること」「布団から起き上がれない?それで配慮が欲しい?朝が辛いなんてみんな一緒じゃん」「自称だけで助けてもらえて良いですね」「一番大変なのは、病名が無く、自称も出来ない真面目な私たち一般人だからな」「本当に辛いなら病院行け(①と同じ)」「ガチで病気の人の気持ちも考えなよ」「自称ADHDのサボり人間 勘違い乙」



……チクチクチクチク。お裁縫ですか。不快極まりないよ。文体は一旦無視して内容を読み取ってみる。


自分は当事者ではない(と今は仮定している)ので、立場としては今のところ②の「自称してない当事者以外の人」だ(病院行けば①になる可能性は誰にでもある)。
やっぱり②の意見は一部を除いて「あー、わかるー」となったし、①の当事者の方の意見にも「まあそうだよね」と納得できた。両者に共通している「病院行け」に関しては、もう正論以外の何ものでもない。「ごもっとも」という感じ。

①の人の意見、なるほどと思った。当事者の苦労を知らない人に自称されて、それで誤認識や偏見が広まるのって、確かにあり得る。今って誰でもバズるし、何でもすぐ信じられてしまうし。「知らない誰かのせいで自分の特性を言い表す言葉(病名)の意味がはき違えられる」という形而上の不利益を被る可能性があるのだから、それは当然嫌だろう。口調が強くなってしまうのも含めて、①の人の気持ちはとてもわかる(容易く言うなって感じだが)。ネットって、無意識のうちに知らない誰かに間接的に害を与えることも可能だから。


【呟き前の思考④】自称を「ズルいな」と感じる理由


何が難しいって、目に見えない障害や病気の有無が、嘘か真かの二択で言い表せないところだ。所謂「グレーゾーン」と呼ばれるものがこれにあたる。グレーの濃さのどの辺からを「黒」と呼ぶのかが、関わる人一人一人の裁量に委ねられる。
何をもって「障害がある」と判断するか、何を根拠に「病気がある」と判断するかなんて誰にも分からないし、何なら医者による診断だって、困難へのサポートを開始するための手段であって、本来完璧な尺度と言い切れるものでは無いだろう。自分だって医療的な根拠無しの自称に懐疑的だとは書いたけれど、医療至上主義であろうとは思わない。
断定不可能な領域だから、本人(自称する人)にも自分の発言が正しいかの証明が出来ない。そんなあいまいな状態なのに、「分からないけど、多分〇〇なんです」と言われてしまうと、第三者は優しくあるべき社会側の義務として「そうなんだ」と受け入れるしかない。分からないなりにサポートを図るしかない。その「どうしようも無さ」みたいなものは、自称している人を守る盾となる一方で、押し付けられた方には「はっきりしろよ」とか「本当か?」とかいうモヤモヤを残す。こういう面倒臭さが嫌悪感に繋がっている部分はかなり大きいと思う。自分が感じていた「ズルい」という感情も多分、こういうあやふやなものを前に立ち往生しているからだ。

【呟き前の思考⑤】自称する人は、なんで自称するんだろう


先にも言ったけれど、自分は自称〇〇を「嫌」と思ってしまう側の人だったので、今ので「分かる分かる〜」となっているだけでは意見が発展しない。嫌いな原因を探るには、むしろこっちを考える必要がある。
自称する人はなんで自称するんだろう。なんで病名を背負いたいの?

想像がつくのは
「病名を背負うと手っ取り早く自分のことを説明できるから」
「周りに分かりやすくサポートしてもらえるから」
この辺りだけれど、これらは全部嫌う側の立場から見える彼らの姿。憶測でしかない。それだけで終わって良いんだろうか。



~考察開始~



…20分くらい経過(内5分はクッキー食べてた🍪)




そもそも自分の前提が間違っているかもしれない。
自称している人は全員「病名を背負いたくて背負っている」と無意識のうちに考えてたけど、ここからもう自分の思い込みかも。
背負いたくない人だっている。自称したくないのに「結果として自称になってる人」は多分いる。
例えば諸事情によって病院に行けない人。金銭面や家庭の事情、親の教育方針等、訳あって病院での診断が叶わないという人はいるだろう。誰もが好きで自称しているだなんて思うこと自体が間違いだった。

こういう「偏見を無くしたぜ」って瞬間の方が別の偏見に気づきにくくなってて危険だったりする気もするけれど、キリがないので先に進む。

「親の価値観云々の理由があって、病院に行けない」
「病名だって背負いたくないけど、でも認めざるを得ない」
「だってこの症状もあるしこの症状もあるし チェックメイトなのよ もう辛いのよ」


こういう人がいるとしたら、病名を名乗るという行為は恐らく「自分を守るために取った最終手段」みたいなものに近い。障害の有無を症状の数で決めつけるのが必ず正しいとは言えないけれど、それでも病名は指標になる。それは多分間違いない。多分間違いないって何だよ。断定してしまうのが怖すぎて歯切れの無い言い回ししかできないです。よろしくお願いします。


【呟き前の思考⑥】「病名が欲しい」という心理


「やむを得ず自称している人」の存在への気付きを書いたところで、今度はそうで無い人の気持ち、「病名が欲しい」という心理について考えた。ここでは少し自分の考えを話したい。賛成してもらえるかどうか分からないけれど、色々考えた結果として「自分はこう思えるようになったな」というのを。



そもそもなんだけど……


「病名が欲しいと思ってしまう精神状態」って、その時点でもう不健康すぎないか。



病気があるかどうか、障害があるかどうか以前に、多分、自称○○の人の多くは、それを自称したくなるくらい、事実として日常生活において大変な思いをしている(そうでない人もいるのかな)。
「自称○○」の人も「自称○○がうらやましい人」も、共通して精神的にかなり参っている状態だと思う。仮に(医者からの診断の結果という意味で)障害が無かったとしても、「不健康」じゃないか。発想自体が、心理状態が。何かしら背景に問題があるってことじゃんか。そんなに心がズタボロになっている人、発言の正誤や障害の有無に関係なく、周りは気にかけた方が良くないか。何かを訴えてきた時点で、もう。

「深刻そうにして心配してほしいだけ」じゃ無いよ。本人にとって深刻な問題なんだから。必要な心配なんだよ。



苦しい毎日の中でどうにか自分の現状を受け止めて、なんとか周りに理解してもらおうと、そのために病名を名乗っているのだとしたら、我慢せず正直に自分の辛さを言葉にしているのならば、それは一つの表現方法だ。

「病名を名乗ることで楽になれる心がある」

それを自分で理解して、サポートを求めるきっかけを自分で作る。関係者への負担は当然あるだろうが、少なくとも第三者に批判する権利は無い。



自称◯◯もまた、こういう思考があっての言葉かもしれない。それを何も考えず、ただ鼻についたからと頭ごなしに批判するのはナンセンスだろう。第三者が口を出すこと自体が烏滸がましいのだ。

批判は減ってほしい。SNSに秩序を求める方が無謀だろうか?それでも減ってほしい。だんだん自称〇〇が嫌だという気持ちが少し薄らいできて、むしろ共感の域に達しているのが分かる。これって良いことなのかな。何言いたいか分からなくなってきた。


☕️←休憩のコーヒー



ツイートの準備


これ以上考えてもウワアとなるだけなので大人しくツイートを準備し始める。手を動かします。

よいしょ。

画像4

最初に作った文章。これだと何だか、「障害があると訴える人=配慮が必要な人」と決めつけてしまっている感じがする。必要な配慮って人それぞれだし、障害があると公言する=困っているという等式は、必ずしも成り立たない。いらない善意に迷惑してる当事者は少なくないと思う。いつかの大学の授業で「支援を受ける人は、支援され疲れてる」という言葉を聞いた。初めて聞いた時、「そうだろうな」と思った。



書き直し。 

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「要らない配慮もある」という旨を足してみた(「こういう配慮は無くて大丈夫です」の部分)。

「優しくしてあげて」って言い回しが引っかかるな。引っかかるというか、「『引っかかる』って言われそう」って感じだけど。
正直言って、自分の伝えたいニュアンス的に「優しくしてあげて」という表現は間違っていない。「叩くことないじゃん」くらいの気持ちを言いたいだけで、障害のある人を下に見る気持ちとかそういうものは言わずもがな微塵もない。

……と言っても、読み手がどう受け止めるかは私が決めることでは無い。引っかかるもんは引っかかるのだ。「○○してあげる」という言葉が持つ特性として、上から目線なニュアンスはどうしても消えない。言葉狩りされる前に書き直そう。日本語って難しい。



そんなこんなで後数回書き直し、出来上がったもの。↓
(冒頭にも示した下のツイート)

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完成(未熟)


つっこまれそうな部分は、まだまだ幾らでもある。たまにネットで議論されてる「害を平仮名表記にするかどうか」とか。漢字表記にした理由は説明できるつもりなのと、自分自身、むしろ漢字と平仮名を混ぜて書くやり方に違和感しか無いのとでこうした。

話がやや脱線してしまうけど、「障がい」表記の話についても、少し思うことがある。

時々見かける、「害」はイメージが悪いから平仮名にした方が良い、という考え。それ自体に疑問は無い。賛成はしないけど、筋の通った主張だと思う。ただそれで、「じゃあ『障がい』表記に」となるのが謎だ。なんと言うか、「障」はいいんだ、と思う。差し障るって意味だけど、そっちはいいのか。イメージがどうのとか気にするなら、どっちも平仮名じゃないのか。片方だけ変えて何がしたいの、と思ってしまう。それでなきゃ傷つく人がいる場合を除き、私は今後も多分使わない。


病気・障害系のツイートのリプ欄は地獄


さあ投稿するっぺ。と思いつつ、最後の一押しが出来ないまま何分も経っている……。


だって、怖いから。


怖いのは完璧な意見では無いという自覚のせいでもあるが、それだけでは無い。
病気、障害関係のツイートのリプ欄って、返信の数が多ければ多いほど、下の方は地獄になってることが多い。それが怖いのだ。

悪の権化としか思えない心無い返信を、そこがあたかも「自由なコメント欄」だと思っているかのようにズラズラ書き連ねる人というのが絶対にいる。ああいう人は燃え盛るのを待つ時間すら楽しいんだろうな。相手が真面目であればあるほどゲラゲラしてんだろう。嫌な嗤い方。

SNSの治安に関しては半分くらい諦めつつ、それでも「仕方ない」とは言いたくない自分がいる。カオスに対して期待しすぎなのは分かっているけれど、一個人の心の内のことだから言うくらいどうか許しておくれ。もう少し治安良くなりますように。

色んなものを恐れつつ投稿しました。


「お前に何が分かる」

「自称〇〇」が嫌いな人について取り上げた部分で、言葉遣いもニュアンスも、後述のために敢えてそのまま残した。と言った。それは記事の最後にこれを言いたかったからだ。


ネット上って、なんでこんな言い方するんだろうって言葉が多すぎる。


自分は、意見自体に共感できることでも、強めの言い方をされると、聞き入れる気を無くしてしまう。障害や病気に関することを呟く一部の人に対しても、叩く側はまだしも(いつものことだから)、訴える側もなんであんなに口調が強い人が多いんだ、と毎日思っている。

福祉関係の優しそうなプロフィール欄をした人ほど、SNSでは荒々しい物言いだったり、博識っぽい略歴を沢山書き連ねる人ほど、知識の無い人を下に見て嘲笑うような口調だったりする。弱っている時にそういうのを見ると、私は心臓の中心辺りをザクザク刺されるような気持ちになってしまう。主張がどんなに立派でも、「怖い」としか感じない。何というか「自分は良いことをしている」という信念から来る自信が見え隠れしている気がする。実際、社会貢献とか情報発信とか色々良いことしているんだろうけど、言葉遣いのせいで台無しだ。

問題意識が低いからそんな風に思うんだ、と言われるかもしれない。棘のある言葉の表出でしか表せないことだってある。当事者の少なさや世の中の意識の低さに警鐘を鳴らすためなら、多少口調を荒げて言うのも仕方のないことかもしれない。私の考えを読んで「うるせぇ」と思う人がいるのは当然のことで、その人の表現方法をボコボコ抹消する気は特に無い。


私が「言い方の工夫」を大切にしたいのは紛れもなく自分のためであって、自己満足に過ぎない。
少なくとも自分は、丁寧な言葉を選んでいる人の意見を聞き入れたい。理想論だけれど、対話を目指している時くらい、どっかしらには他人の意見を受け入れる隙間があってほしいと思うから。

自分が「自称○○」に対して思っていた意見も、「自称○○」の人本人の考えも、当事者の口調強めな反論も、全ての意見の棘の部分に言えることは「お前に何が分かる」だ。全ての意見に「お前に何が分かる」と突っ込めるし、反対に、他人の意見なんて分かりっこない。

急にバカみたいな総括をしたけれど、これを忘れないのが結局一番じゃないかと思うし、自分もつい忘れてばっかりだから気をつけたいと思っている。

他人のことなんて分からないんだから。直ぐ分かった気になるんじゃない。分からないもんだからしょーがない。しょーがないんだから、分からない部分は素直に聞く。憶測で余計なことを言うんじゃない。お前に、私に、何が分かるんだ。


願わくば柔らかな言い方を


長すぎるのでそろそろ終わりにします。

「自称○○」の言い争いに限らず、匿名が許されている議論の場は、気を付けていないと「言いたくて言ってるだけ」の積み重ねになっていく。それは誰がどこから見ても、対話と呼ぶに値しないくらい醜い。
何を言おうが自由というのは礼儀のある範囲において前提となるものだ。でも相手を理解しようとせずに反論し、また反論を受け入れる気が無く発信するから、争いが絶えないし曲解が頻出する。棘だけ思いっきり投げつけたい時や、そうしないと伝わらないこともあるけれど……。

「分かってほしい」「受け入れてほしい」と強く思う時ほど、言い方を柔らかくした方が誤解無く伝わりやすいという耳タコ理論を、自分は今後も色んな人にお願いし続けるんだと思う。優しい人で溢れる世界になってほしいから。


発信する側は「わかれよ」では無く「理解してほしいです」
受け取る側は「わかんねえよ」では無く「教えてください」

出来るときだけでもこんな風に言ってほしい。叶いそうもない願望だ。


全人類はチクチク言葉をやめろ


「一言で矛盾してください」という大喜利用に取っておいた言葉だけれど、今後生きていても大喜利をする機会がなさそうなのでここで消費することにする。

全人類はチクチク言葉をやめろ。

チクチクするな。

家庭科以外でチクチクすな。

世界の物言い、もう少し優しくなってほしい。無理のない程度でいいから、私も頑張るから、言葉選びにもっと慎重になってほしい。言語化が上手い人だけを過信するのも危険だけれど、それでも言い方ひとつで、争いの数はきっと減るのです。インターネット聖母より。


【最後に】


「自称○○」と、それを取り巻く様々な意見に対する考察でした。まだ理解できていない部分もあるけれど、書いているうちに大分考え方を変化させるnoteになりました。誰かのためになっているかは謎ですが、少なくとも今の自分の意見置き場として、今後も活用すると思います。

「腹いせに叩かれるような光景」、何においても減ってほしい。優しい世界で生きていたい。

おわり。


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