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車谷長吉

「好きな作家は...車谷長吉です。」

これは、わたしが金沢美術工芸大学油画科に入学した時に、初揃いの新入生連中と円を囲んで、最初の自己紹介で言った言葉です。

美大に入学したのなら、作家とならばふつうは絵描きの名前を言うところを、わたしは、絵を描きはじめたのが高校三年の春からであったので、たいした絵に対する知識もなく、とにかくその当時大好きであった小説家の、車谷長吉(クルマタニ・チョウキツ)と答えたのでした。なんのてらいもありません。本心から、言ったのです。

いかに本心と言えども、それは自分の中だけのことであって、「好きな作家をひとり」というお題の中で、皆が絵描きの名前を言っていくなか、わたし一人が小説家の、それも、あまりメジャーでない作家の名前を言うというのは、これは、勘違いされても仕方のないものでした。もうひとつ、「ドラクロワ」という答えもあったのですが、それは高校三年に始めて図書館で知って模写して好きだったくらいで、「ドラクロワ」がどのような人なのか、わたしは経歴をまるで知らなかったし、もしわたしが「ドラクロワ」と言って、あとで追及されてはかなわん、と思って、それならいちばん高校時代に熱心に読んだ、もっとも熱狂した、車谷長吉であろう、と思ってのことだった。

ウケる、ウケないではない。それは、スルーである。う、と思ったが仕方がない。わたしは華麗に教授連によって流された。誰も、車谷長吉(クルマタニ・チョウキツ)を、知らなかったのだ。わたしは、彼ら教授連の無知を、決して責めない。

わたしが車谷長吉を初めて知ったのは、町田康の随筆によってである。『へらへらぼっちゃん』だったか、『つるつるの壺』であったか、『耳そぎ饅頭』であったか。とにかくこのどれかの初期の随筆集に載っていたはずである。「おすすめの小説」みたいなことで、この車谷長吉の「鹽壺の匙」という処女短編集がとにかくすごい、と。書かれてあった。おなじ随筆集の中で、のちにいまになってさらに興味を持っている戦後無頼派の織田作之助の「夫婦善哉」なんかもオススメとして載っていた。わたしはそれら町田康がおすすめする何作かをレシートの裏にメモして、連日、高校の帰り、ブックオフでその作品を探した。ふつうの書店でも探したが、ないのである。どこにもおいてないのである。血眼になって探した。織田作之助の夫婦善哉は、私立図書館で借りて読んだ。

ある日、どうせないんだろうな、と思いつつ、「く」の欄を適当に歩いて眺めてみた。ほとんど期待してなかった。が、あったのである。車谷長吉。探していた「鹽壺の匙」ではなかったが、なんとも禍々しい、ドス紫の背表紙に「赤目四十八滝心中未遂」「車谷長吉」と書いてあった。わたしは震えた。その、一冊の本から滲み出る、呪いのような雰囲気に。これだッ!と思った。手に取るのも傷つきそうなくらい恐ろしかったが、おそるおそる手に取り、ページを開いた。冒頭が、こうである。

これだけでもう、わかった。この、友達もできぬ、暗い、最低の高校生活。部活もせず、帰っても何もせず。休み時間にはゴミのような人間にからかわれ、胃と心臓をストレスで病み、ブチギレ、以降からかわれる不安はなくなったが、体育祭ではいく場所もなくずっとウォータークーラーで水を飲むだけ、ストレス性の心臓疾患で市内の精神科、内科を親に奔走させ、親不孝。一ヶ月、胸と腕にペースメーカーをつけられ、「この日何をしていたか」を時系列に詳細に書かされる診断のくせに、「午後5時〜10時、音楽鑑賞」などと舐めたことを記し、「オナニーってかいたほうがええん?」などとキチガイじみたことを半狂乱で両親に訴え、苦笑される。家族のだれとも会話をせず、飯を食えば無言で二階に上がって、訝しがられる。音楽を聴きながら枕に向かって奇声をあげる。「ああー!!」と絶叫を繰り返す。夜中12時に父親から「いいかげん、やめろ!」と階下から怒鳴られる。そんな最悪な、人間としては、このうえなく、ぴったり寄り添う文章であった。つづきはこうだ。

わたしはこの作家にゾッコンであった。だれも知らぬだろう。おれだけしか知らぬ。すごい作家を見つけた。とひとり興奮していた。事実、芸術をよく知る美大の人々も4年間通って誰も、先輩も後輩も、車谷長吉を知らなかった。稀代の現代、私小説作家であったのだが。

何冊も読んだ。ほとんど読んだ。「私小説家、廃業宣言」をしたあとは、ほとんど読まなかったけど。
そのほとんどを、おれはいま覚えていない。なぜなんだろうか。自分でもわからない。青春とは、ガムシャラで、えてしてそういうものである。

2014年。銀杏BOYZがついに、9年ぶりにセカンドアルバム『光の中に立っていてね』と、ライブリミックスアルバム『BEACH』を1月15日に二枚同時発売した。その日、おれは朝から駅前のタワーレコードに出かけて行って、テレビ収録をしているザキヤマを見た。どうでもいいと思った。だが、幸運だと思った。この日、おれは銀杏BOYZの新譜と、ザキヤマを生で見たんだ、という思い出が繋がっただけですこし嬉しかった。
ムカついたのは、峯田の年末のプロフィール更新である。「今年一年、のあいうえお」というのは年末の銀杏の風物詩で、その年一年の峯田が心に残ったものことを、あ、から、ん、まで五十一個、公式ホームページに記すのである。そのなかの「く」の欄で、車谷長吉が紹介されたのだ。

ざけんじゃねえ。おれだけが見つけたはずなのに。これじゃあ、車谷長吉も、峯田、貴様のおかげで知ったみたいな、サブカル厨みたいな、そんなあつかいされんだろ!!
おれはおまえが紹介するずっとまえから!自分の意思で!車谷長吉のファンだったんだよ!!おい!!畜生が、と悲喜こもごもであった。(おれのセンスは間違ってはいなかった、峯田が賞賛するほどだから...)という気持ちもあるから、簡単には片付けられない。このジレンマ。

車谷長吉。

車谷長吉...。

車谷長吉さん死去、直木賞作家
直木賞作家の車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ、本名嘉彦=よしひこ)さんが5月17日午前8時34分、東京都文京区の病院で死去した。


HuffPost Newsroom 
The Huffington Post
直木賞作家の車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ、本名嘉彦=よしひこ)さんが5月17日午前8時34分、食べ物を喉につまらせた窒息のため東京都文京区の病院で死去した。69歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は行わない。47NEWSなどが報じた。
妻で詩人の高橋順子さんが同日朝、自宅の居間で倒れているのを発見し、病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認されたという。

彼は死んだ。69歳で死んだ。解凍したイカを丸呑みして窒息して死んだ。よかったと思う。

2015年?2015年って、おれは金沢でコンビニの深夜バイトして、真夜中、人が捨てていったゴミをビニール手袋かけて、一つ一つ分別してた、あの夜。死んだのか。気づかなかった。


いままで車谷長吉のことを、車谷長吉はどんな声の人なのかを、たくさんしらべて不毛に終わってきた。

このたび、1999年。3月14日。NHKで白洲正子特集で、車谷長吉がゲストで出演している動画をYouTubeで見つけた。衝撃だった。また、見て、その軽やかな喋り方、これは、まったく彼の小説を一編でも読んだことのある人なら、想像にもできない快活な姿だった。「こんな人が、9年間も、タコ部屋で、月給5万円で...」

人間というのはわからない。が、来世は亀になりたい、人間になど二度と生まれ変わりたくないと言っていた車谷長吉。この人の、このテレビでの振る舞い、そこかしこにちら、ちら、と見える、不適合者的側面。このひとは、どうやっても、なりきれぬ、かわいい、信頼できる人だなあと、改めて思った。大人になるくらいなら、これくらい、正直でなりきれないほうがいい。

追記。

いや、ほんとに、こんなに軽く喋る、いや軽く喋るのが、恐ろしさを語る本当の方法だとは太宰の研究で重々わかったものだが、こんなにテレビのいいなりに柔軟に自分を変える、優しい人なんだなと、車谷長吉を改めて好きになった。貴重な資料です。きっと、太宰治も、こんなテレビ番組に出るとなると、こんな感じで出ていたんだろうなあと、思う。

ゲスト車谷長吉、白洲正子



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