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歪んだ自分のままいさせてくれるパートナーよ、ありがとう

私はこの時間、自分のパートナーとのLINEを見返すという、絶対に後悔することをよくやる。

はじめは軽ーい気持ち…というかむしろ、幸せな気持ちを掘り起こすためにやり始めるんだけど(この時点でキモい)
毎回徐々に、自分のキモさを痛切に感じ始めるのがもう…居た堪れない。

例えば。

自分の夢の中で彼が冷たかったと現実の彼に訴えてみたり、
自分のネガティブな妄想の中で彼が将来育児と家事の分担を一緒に考えてくれないかもしれないと恐れ慄いては、現実の酔っ払った彼に「将来私が育児と仕事の両立に追われて体調を崩してもずっと飲んだくれるの?」と(画面の向こう側で)真顔で詰め寄る…などなど。

もう一言で言って、こわい。こわすぎる。

それお前の被害妄想でしかないわ!
と心の中で盛大に突っ込みながら、まるでかの有名な○マぶっ子様の投稿を見ているかのような気持ちで他人事のように見てるんだけど…
その当時はそんな冷静に自分を見つめられていないからこそ、恐ろしい。

思えば私は、昔からとにかく認知の歪みの強い人なのだ。
自分が本当に心を病んで心療内科で入院していた頃、「さすがに入院するってやばいな」なんてぼんやり思って、スカスカの心と頭に無理やり入れた付け焼き刃の心理学入門の本で読んだ「認知の歪み」の例や特徴たち。
それらは当時の自分にはすべからく当て嵌まったし、今の自分を見つめ直しても、「あーやっぱり私って認知歪みまくってんなー」と思う。

「認知の歪み」なんて言い方をすると大層に聞こえるけども、要は自分のフィルターを取り払って事実を見つめることがすごーく苦手なのだ。
だから、感情を取り払った仕事はまだしも、恋愛とか人間関係のことになると本当に、自分でも後々びっくりするような捉え方をして、突っ走ってしまう。

でも今まで一応、決定的な失敗や、決定的な人間関係の崩壊はして来てない、と思う。
それはなんだかんだで、周りの人にほんっっとうに恵まれてるからなんだろうなぁと、そうも思う。

実の親ではないからこそ、父が私を嫌っているに違いない、なんて馬鹿なことを思っていた思春期真っ盛りな時も、
頭の悪い私のことを職場の人は馬鹿にしているに違いない、なんて思い込んで萎縮していた新入社員時代も、
恋愛におけるネガティブな妄想力だけは逞しくて、ひとり落ち込みロードを爆走している今も、

「またゆっきのアレ始まったよ」と、笑って怒って嗜めて、
認知の歪みを「歪み」ではなく「らしさ」だと認めてくれた人たちに囲まれてたから、
私はなんだかんだで大きく道を踏み外すことなく、「歪みながら」生きてこられたなと思うのだ。

本当は真っ直ぐ、強く美しく、例えられるなら向日葵とか太陽とか人に言わしめるような女性になりたかった。今もそんな憧れは変わらないから、歪んだ自分がやっぱり毎日嫌になる。

でも、日々歪んで曲がりくねった生き方/見方をしながらも、
昔より少し大人になった私は、歪んだ自分をたくさんの支柱が支えてくれてることに気付けるようになったよなぁ、
なんて、深夜気づいた末恐ろしい荒ぶるアラサー節をしみじみと受け止めている。

歪んでても良いか、それもまた味でしょ、なーんて思い始めるのはまだまだ先のことだろうけど、
この恐ろしい深夜の自分LINEパトロールの末に気付いたみんなからの愛情や支えに感謝することは忘れずにいたいなぁ。そんなことを深夜に思って、今日は筆をとってみた。


ちなみに、今まで長く付き合った人に「これ見てゆっきを思い出した」と言われたことがあるのは、
①ハエ取り草
②防風林の赤松
である。

ハエ取り草や赤松を連想させながらも長く付き合ってくれた彼らは、きっと私のことを本質的に好きでいてくれたんだろうなぁ。ありがたや。笑

明日も歪みながらもがきながら感謝しながら生きよう。
我ながら訳がわからない生き方だけど、これが私なんだから仕方ない。ハエ取り草のように奇妙に、赤松のように貪欲に頑張ろう、と思う。

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