見出し画像

学生の春休みにディズニーに行ける人生を

もはや陰キャ、陽キャの二分法は古いと思われる程に定着しきった概念だ。世界は、そういう人間が二分法どころではない、とんでもない層をなしながら構成されている。テッペンには、特別な何かが起こらなくても(いや、特別な何かが必ず起きているのかもしれない)、人が寄ってきて、大人数のグループを構成することができて、友人同士でいるにも関わらず携帯をいじっていても、特段違和感を感じ得ない人間たちが存在している。そして、底辺(という言い方は誤解すぎるが)には、群がれないこと、邪険に扱われていることに気が付かない、気にしない、最強の人間たちが存在している。単なる二分法ではない、二分法にするには多様すぎるのが、ろきちゃんたちだ。

じゃあ、ろきちゃんはどこにいるのだろうか。分からない。テッペンではないことは分かるが、底辺でもない気がする。結局のところ、客観視、客観視と言っても、俯瞰できないものだろう。ただ、一個だけ判然とすることがある。それは、学生時代、春休みにディズニーに、男女3対3ぐらいのグループで行ける程度の層にいたかった、ということだ。

あんなに輝かしいものはない。卒業という栄光を手にした高校生たちが、大学生活という長い長いモラトリアムの中の長い長い春休みを謳歌する大学生たちが、眩しい。眩しさは嫉妬の裏返しか、嫉妬の裏返しだ。紛れもなく嫉妬の裏返しだ。ディズニー以外の場所では、鬱陶しくて見てられない、痛々しいシチュエーションがディズニーでは、当たり前の光景に様変わりする。これは魔法だ。

しかし、だからと言って、そんな底抜けキラキラ友達がいないからと言って、ディズニーという史上最高のテーマパークを諦めきれる程にろきちゃんは、潔くない。泥臭い。それでもかと泥臭い。多分、カチューシャを買ってしまえば、ポップコーンをぶら下げていさえすれば、その空気には馴染むことができるのではと、そう思い、ふわふわした腰を滑らせてみた。

やっぱり、そうだ。ディズニーは魔法の国。陽キャも隠キャも関係ない。そんな特大な魔法を浴び、数ヶ月の「スベリ」を忘れ去ることができるくらいには楽しいのだ。ワクワクなのだ。入園して、3時間ぐらいはね。

もうあの頃みたいに無限の体力は兼ね備えていないみたいだった。3時間も過ぎれば、どっと疲れてくる。もう人気のアトラクションなんかは諦められる、立ちたくないから。ポップコーン売り場の周りの甘い匂いがキツい。朝買った、このカチューシャが邪魔でしょうがない。今隣にいるのが、ちょっとでも気になってる女子なら、ろきちゃんはまだ頑張れる。でも、実際は、気心の知れすぎた男友達だ。気遣ってワクワクのふりをする必要もない。徐々に思い出話が始まる。大学の頃の必修科目「英語ライティング」の宮田先生の話になる。もう、夢の国でも何でもない。今ここは、ちょっと寒い立ち食いファミレス同然だ。んー、劣悪。

きっと、夢の国の中ではこれでもかと言うストーリーが繰り広げられている。ひとつひとつが、何かしらのエンタメになりうる最高のストーリーが。その片鱗すらも漂わせることのできない周縁部のろきちゃんには、巡り合うことのない世界の筋なのだろう。でもこれは、努力の話だ。努力して、学生の春休みにディズニーに行ける人生に辿りつきたかった。

あーあ、もったいない。かけがえのない瞬間をわざと憂鬱で塗り替えてきた、その代償がこれか。もっと楽しいこと見つけるかぁ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?