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モノクルとパンダ(短編小説)

 まったく、大学生なんてクソ喰らえだと思う。大学生という言葉で一括りにしてしまえば十把一絡げで、繰り返されてきたお説教のように聞こえるけれど、別に彼らのファッションや言葉遣いに文句が言いたいわけじゃない。彼らは未完成で、それを自覚してないんだ。それはもう、京都の冬の寒さくらい致命的なんだ。

「ならば君は一体どのような青年を志しているのかね。自分はそのダイガクセイの例に…。失礼、このポッドは適切に洗ってあるかね?」

 言葉を発したのはモノクルをかけた老人だ。いかにも、ご老体かどうかは言葉遣いとしゃがれた声から判断するしかなかった。性別だって厳密に言えば分かりようがない。彼ないしは彼女には顔がなかった。モノクルが掛けられた、本来なら顔の位置する部分には黒いもやのようなものが漂っていて、言葉を発するたびに気体の流れのようなものが生じた。構造としておよそ顔と呼べるような実体がその裏に存在して息を吸ったり吐いたりしているのか、あるいは、全体が煙のようなものなのかは推測の域を出ない。彼は長身で、厚手のおよそ2kgもありそうな黒いコートを身に纏い、ダークブラウンの革のブーツを履いていて、極めて観念的な椅子に座っていた。

「ああ、洗ってあるとも。だが、適切な洗い方って一体なんのことだい?」

 老人はやれやれと言わんばかりに肩をすくめて、食器洗いのイロハを口にする代わりに、黒いもやのため息を吐いてみせた。

「全く、ご相伴に預かり誠に光栄ではあるが此処は空気が澱んでいるうえに、廊下を除けば足の踏み場も満足には見つからん。仕方なく秘蔵の椅子を持ち出したのは良いが、TPOとやらをもう少し考えるべきだったかな?」

 彼は大英帝国仕込みとも言わんばかりの流暢な発音で、言葉遣いに合わない横文字を使ってみせた。ついさっきの僕の発言から習得してみせたようだ。記憶を司る器官は、一体どこにあるのだろうかと疑問を覚えざるを得ない。

「あんたが勝手に押しかけてきたんだろうよ。もちろん鳴ったインターホンに対応して、チェーンを外して、ご親切にドアノブを回したのは僕だけれどもね。それより、パソコンの使い方は大体インプットされたかい?」

「許可を得ることは私の世界では鉄則とされておる。許可ないしは入力をもってして初めてコトが進むのだ。そして、あのパーソナルコンピュータとやらの画面は、先程から『許可なく』扇情的なご婦人の姿写真を表示し続けており、私はそこから先に進むことが叶っておらん。」

「ネットの世界を舐めてもらっちゃ困るね。彼らには許可を得ようなんて考えはないんだ。しかし、必要とあらば、他人のうっかりした許可を武器にするのも彼らのもっとも得意とするところだがね。で、そのポップアップ広告なら全て消してしまって構わないよ。」

 彼は廊下と一体化したキッチンでブラックコーヒーの香りを楽しんでいた。少なくとも普通の姿形をした人間ならそう見られるような姿勢で、虚空を見つめていた。コーヒーの湯気と彼から立ち上る黒いもやが混ざり合うようにして、換気扇に吸い込まれていく様子は、長く続いた戦闘の跡のように物悲しげだった。
「それから、パソコンがうまく使えそうなら、僕の方は少し眠らせてもらってもいいかな。それが使えないとなると特にやることも見つからないし。ちょうどレポートの提出を諦めて、ささやかな祝賀会でも開きたいくらいの気分だけれど、歓待パーティーを開くには今日は遅すぎる。あんたが実在するならだけど。」

 時計の針は1時を指していた。

「いや、構いはしない。」彼はこちらに向き直って言った。「私は君の寝ている間に調べ物を済ませるとしよう。愉快な夢を見たまえ。」

 僕はベッドに潜り込み、今朝起きた時からそのままの毛布をかき集めて目を閉じた。僕の下宿先は、学生の街である京都に余るほどあるアパートの一室の中でも狭い方で、6畳弱の一部屋しかない。未確認生物と一緒にぐっすりと眠りにつけるような環境では当然ないのだが、不思議と寝ることができる確信があった。というか不自然なほどに眠たかった。


 彼が訪問してきたのは大体20時だったと思う。僕が24時締め切りのレポートにうんざりしだして、そもそも24時に提出期限を設定する意味がどこにあって誰が考え出したのだろうかなんて一人で悪態をつきながらカップ麺をすすっていた時に突然インターホンが鳴った。一年生にして、大学という組織にもまた斜に構えていた僕には唐突に訪ねてくるような友人は残念ながら居ないので、訝しみながらモニターを覗くと、そこには真っ黒な砂嵐(一昔前のテレビでよく見たやつだ)が映し出されていて、銀縁のモノクルがちょこんと所在なさげに浮かんでいた。

 さあ、これは来訪者なのか。いや、新手の訪問販売の類かもしれない。とりあえず見なかったことにしようか。なんて考えは咄嗟には浮かばず、この未知の遭遇者に対して僕はとりあえず「どちら様ですか」と尋ねてみた。これがファーストコンタクトとして正しい選択だったのかどうかは分からない。あるいは無視を決め込むのが正しいのかもしれなかったけれど、僕はどちらかで言えば直観的で、挑戦的な人間だった。しかし、少なくとも今回のケースにおいては、彼からはきちんと返答が返ってきた。

" Hello, World! "

 それは僕の少し期待していたような、運命を変えてしまうような答えでも、抱腹絶倒するような答えでもなかったけれど、エントランスのオートロックぐらいは外してやろうという気持ちにさせるにはギリギリ合格点だった。


 目を覚ますと部屋の外はすっかり明るくなっていた。いつもの癖で、枕元にあるサイドテーブルの上の目覚まし時計を手繰り寄せようとして当てが外れた時に、昨夜の怪奇現象をようやく思い出した。1日のうちでもっとも無防備な瞬間を誰かに見られているかもしれないことが(それが非現実的な存在だとしても)、僕はなんだか恥ずかしくなって、慌てて起き上がってみれば部屋の中には誰もいなかった。

 それどころか、全てが昨夜見た光景そのままだった。パソコンの画面は精力剤のけばけばしい広告を表示し続けているし、コーヒーはすっかり冷めた状態で黒々とした表面をなみなみと湛えていた。あの変な椅子もどこにも見当たらなかった。半年間で曲がりなりに独身生活に慣れてきた僕にとって、ただ一番自然な景色が広がっているだけだった。なんだか少し喪失感のような物を感じた。

 人生とはそういうものなんだ。18年生きていれば意味付けのしようもないような、白昼夢みたいなことだって起きるだろう。そんなふうに結論づけて、さて、これをサークルの連中にどうやって面白おかしく話してやろうかなんて考えているとインターホンが鳴った。

 まるで映画のワンシーンみたいに運命的で、決定的な響きが、朝9時のワンルームを満たした。ハンドタオルで濡れた顔を拭いながら、モニターの方に近づくと、やっぱり、そこに映っていたのはモノクルと黒いもやだった。映画だったら、ここでモノローグが入って、カメラが徐々にモニターの方へ寄っていくような感じ。

 僕は念の為、もう一度問いかけてみた。というか未だに答えの得られていない問いを繰り返すことにした。ほんのりとした高揚感を誰にも悟られないように、努めて無表情を装いながら。

「どちら様ですか。」

 彼は、昨夜よりもキーの一段高い、若返ったようなイメージを与える声音で、とは言っても白髪まじりのおじさんを想起させるような声で、返答した。

「やあ、タクミくん。いい夢は見られたかい?」


 チェーンを外して金属製の扉を開けると、アパート内にまで充満した冬の寒さが気圧差でグッと押し入ってきた。革靴がリノリウムの床に刻む軽快な音が安アパートの沈鬱さを粒立てるようにして強調し、それを掻き分けるようにして男は階段を登ってきた。

 彼の身体的特徴は全くと言っていいほど隠されている。昨日と同じく、黒の厚手のコートは膝下まですっぽりと身体を覆っていて、やや袖口の広い黒のジーンズに焦茶色の革靴を履き、手にはこれもまた革製の黒い手袋をしていた。顔の代わりに黒いもやを湛えた、頭でっかちにも見えかねないシルエットをうまく引き締めているのは、右目の位置にかけられた銀縁のモノクルで、これが彼をどこか不吉な存在とは思わせないような印象を与える分水嶺となっている。ところで、彼は声だけでなく見た目からも若返ったように思わせた。長身の彼を最後見上げるような姿勢になった所で、小さな引っかかりを覚えた。なんというか、彼の体つきはひと回り大きくなったというか、芯にある精力を取り戻したような雰囲気を感じた。

「お招きいただいて感謝している。」と、彼は昨日の出会い頭と同じく、まず感謝の念を述べることから始めた。「つい先ほどまでこの部屋に留まらせていただいていたが、私の方で少々、あり方が変わったのだ。となれば、新たな装いと許可が必要となる。少々面倒かもしれないがね。」

「新たな装いと許可?」

 僕は後半部分だって意味がわからなかったけれど、彼の見た目の変化についてはちょっとした違和感くらいのものしか感じなかったので、聞かざるを得なかった。

「そうとも。全体的なイメージで物事を捉えるタイプなのだな、君は。ならば種明かしさせてもらうが、昨日は左目にモノクルをつけていたんだよ。それ以外にも…。」

 ここで彼は息を整えて、僕にドアを閉めて中に入るように身振りで示した。

「おいおい、君についての事例を、他の人間一般に還元しないでくれ。僕はこれでも、人の外見については意識的な方だと自負しているんだ。しかし、モノクルの位置が左右逆なのを見過ごすなんて僕もヤキが回ったかな。で、君はつい先ほどからどこに行ってたんだ? ︎︎まず君のような生物が人目を引かずに出歩くことなんてできるのか?」

「私の姿は他の人間にはほとんど認識されていない。見えてないわけではないし、触れられないわけでももちろんない。個人の嗜好によらず、すなわち本能的に、美しいとは形容できない顔立ちというものが存在するのと同様に、どうやっても記憶に残らない顔立ちというものが存在する。私の顔は彼らにとってそのように見えている。」

「なるほど。」確かに理には適っているように思えた。美人や不細工、いつでも怒っていそうな顔、幸薄そうな顔といった印象を、誰にも教えられることなく、多くの人が抱くのだから、誰からも無視されて然るべき顔があったって不思議じゃない。誰からも覚えられないならば、当然議論の的になることもない。けれど、少なくとも僕は、それがどのような顔立ちになるのか全くイメージできなかった。試しに黒いもやのかかった顔を手のひらで隠して見れば、彼はどこにでもいそうなシックなおじさんに見えて少し面白かった。

 ベッドに腰掛けて片目を瞑りながら手を上げ下げしている僕を見て、彼が居心地悪そうに手袋の皺を伸ばしている姿もまた少し愉快な光景だった。

「で、私が出かけていた訳は下準備を終えるためだ。調べ物は昨夜のうちに大方済んだ。さあ出かけようか。」

 さあ出かけようか?どこに?なぜ僕が一緒に行くことになっているのだろう。そして今から?

 僕の考えを一旦盗み聞いていたような間をとってから彼は続けた。

「メキシコシティに、だよ。タクミくん、君だってネットでメキシコシティのパンダについての記事を読んだはずだ。見たいだろう?とりあえず君の準備の方を済ませてくれ給え。」

 メキシコシティのパンダと聞いて、朧げに思い出すものがあった。先週あたりに読んだ気がする。確か、見出しは『忘れられた孤独なパンダ』。1975年に中国がメキシコに贈呈した二頭のパンダ、その孫パンダが33歳の誕生日を迎えたというのが記事の内容だった。そのパンダには比較的長生きであることの他に、メキシコを国籍として持つ、というか現在、中国以外の国が所持するパンダの内で唯一の生き残りだという背景があり、記事では全体を通してパンダに同情していた。

 外交政策をはじめとする人間のエゴによって異国の地で孤独に余生を過ごすパンダの姿を想うと、なぜか僕は月に降り立ったアポロ11号の映像を思い出した。

「いや、言いたいことは沢山あるけどさ、まずもってパスポートの場所すら僕は把握してないんだぜ。」

「パスポートなら、君が最初に思い浮かべた場所にある。他も然りだ。」モノクルの男は僕の言い訳なんてお見通しだと言わんばかりに間をおかず言い返す。

 パスポートは机の引き出しの奥にあった。ここに仕舞っておいた記憶はないが、確かに、あると言われれば必ずここにあるという自信が何故かあった。

 窓の外を見れば、向かいの工事現場はすでに今日の作業を始めていて(どこが進展しているのかはわからなかったけれど)、1日の長い連関はエラーなく繰り返されていた。その横の駐車場にポツンと停められた車のフロントガラスは結露して、厳しい冬を思わせていたけれど、ガラスに反射した朝の光がメキシコの夏の日差しに見えて僕は思わず目を細めた。



 


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