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映画「否定と肯定」:真実を追求すること

映画「否定と肯定」が8月26日(木)までGYAOで無料公開だったため、26日夜に大急ぎで鑑賞。

今も昔も差別主義者や歴史をひずめようとする人たちがいる。そしてそれを支持し、拡散する人たちがいる。この映画からホロコーストの事実、否定論者の論法、歴史を否定する人たちや差別主義者と対峙する姿勢、そんなことを考えさせられる。また、すでに事実として認められていることに対して、改めて「真実であること」を証明することの難しさも伝わってくる。


あらすじ

歴史小説家デイヴィッド・アーヴィング(David Irving)が1977年に『Hitler's War(ヒトラーの戦争 <邦訳1983年初版>)』を出版。アーヴィングは著書の中で、ヒトラーはホロコーストに消極的だったとした。

対して、歴史学者で現代ユダヤ史・ホロコースト研究者のデボラ・E・リップシュタットは1993年に『Denying the Holocaust: the Growing Assault on Truth and Memory(ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ)』を出版。そこで、リップシュタットはアーヴィングを以下のように批判する。

アーヴィングはホロコースト否認論の最も危険なスポークスマンの一人だ彼は歴史的な証拠に精通してはいるが、それを自分の思想的傾向と政治的路線に一致するよう歪曲している。

1994年、リップシュタットがホロコースト否認論についての講義をしているところに、アーヴィングが乗り込む。彼はリップシュタットは学生に対して嘘を教えているとし、彼女を責め立て、講義を混乱させる。

その後、1996年、アーヴィングはリップシュタットと出版社(ペンギン出版)を英国にて名誉毀損で訴える。イギリスでは訴えられた側に立証責任がある。そのため、リップシュタットと彼女の弁護団はアウシュヴィッツへの現地調査やアーヴィングの何十年にもわたる日記の調査を敢行し、「ホロコーストの真実」を証明することに挑む。そして、2000年、否定論者アーヴィングと歴史学者リップシュタットらの裁判が始まる。


既存の事実を「真実」として証明する難しさ

ナチスドイツによる大量虐殺(ホロコースト)は実際にあった。多くのユダヤ人などが「シャワーを浴びる」という指示を受け、ガス室に連れて行かれ殺された。これは映画や小説の中の出来事ではなくて、本当にあったことだ。

しかし、その「本当にあったこと」を改めて科学的に証明するのは容易なことではない。


違う例で説明してみるとすれば、「1+1=2」だ。幼稚園児でも小学生でも誰でも「1+1」が「=2」になることはわかる。しかし、では、「1+1」が「=2」になるように証明せよ、と言われると難問だ。

「1+1=2」は世界の常識だろ!では証明になっていない。

小学生の算数の時間に「1+1=2」で悩んだことがある人もいるだろう。例えば、「団子1つと団子1個を合わせると、大きな団子1個になる」「稲1束と稲1束、合わせると大きな稲1束になる」こんな感じで、頭の中では「1+1=1」になってしまうのだ。しかし、これでは算数として次のステップに進めないため、「1+1=2ということで覚えよう」となる。

「ポケットの なかには、ビスケットが ひとつ。ポケットを たたくと、ビスケットは ふたつ」

これは童謡「ふしぎなポケット」の歌詞だ。これだと、「1」に変化を加えると、「1」だったものが作用して「2」になる。ビスケットを新たにポケットに入れているわけではないため、「1+1=2」ではなく、「1→2」だ。ふしぎだ。


しかし、「1+1=2」だ。これは分かりきった事実である。

これと同じようなことに思える。「ホロコーストはあった」ということを証明するも何も、あったんだよ!としか言いようがない。しかし、これを証明しようとしたのがリップシュタットと彼女の弁護団なわけだ。偉大な仕事だと私は思う。

偉大なる科学者や研究者がときに「教科書を疑え!」という時がある。しかし、これは「教科書を徹底的に勉強してから疑え、研究せよ」ということだ。これまでの先行研究や論争を勉強せずして、自分の信念に沿った情報だけ見て、「教科書は間違えている」「教科書が書いてない事実」なんてことを言うのは見当違いも甚だしいことだ。


「専門外には口をつぐむことだ」

アーヴィングは法廷でリップシュタットの法廷弁護士リチャードに「ガス室」のことについて問われる。アーヴィングが「ガス室」のことを「死体を消毒するところ」と言ったり、その直後に「防空壕だった」と言ったりしていた。何度か応答を繰り返した後、リチャードはアーヴィングすぐに焼却する死体をガス消毒する理由を問うた。答えに困ったアーヴィングは

「思いつきで書いたのかもしれない。ホロコーストでなく、ヒトラーが専門なので・・・」

と苦笑しながら言う。すると、リチャードにこのように言われる。

「専門外には口をつぐむことだ」
「あなたは歴史家として、話にならぬだけでなく、不正直なのだ」

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最近は少しでもよく知っていれば「専門家」を名乗れるようだ。

しかし、当然のことながら、自分の専門としていることと同じくらい専門外のことを語れるかと言われればそうではない。私は物理の専門家ではないから、物理学者のように相対性理論について何かを語ることはできない。軍隊の専門家ではないから、日本の自衛隊の活動に評価を与えるコメントはできない。神道の専門家ではないから、神道と日本国政府の繋がりについて(以下略)。そのような感じだ。

特にテレビコメンテーター業をメインにしている「学者」や「評論家」は危うい場面が度々ある。ファンや信奉者もいるだろうし、テレビに出演しない学者より一般向けには影響力がある。先日、尾木直樹氏がブログでワクチンの副反応について述べ、医療関係者からデマと指摘され撤回していたニュースがあった。

「専門外には口をつぐむことだ」。わからないことは「わからない」と言うのが誠実さだ。「学者」「専門家」と名乗っているのであれば尚更。

この映画の中でも、リップシュタットはイギリスの法律の専門家ではない。しかしながら、弁護方針で弁護団らと終盤まで揉める。リップシュタットは自分の気持ちは押し殺して、法律の専門家であるリチャードやアンソニーらに託した。だからこそ勝てたのだ。「専門外には口をつぐむことだ」し、専門のことは専門家に託すことだ。

歴史否定論者や差別主義者とは語り合えないこと

アーヴィングはリチャードの指摘により法廷で差別主義者であることが判明する。しかし、彼自身は「差別してない」と主張する。

アーヴィングは、重要なニュースは男性、普通のニュースは女性、強盗や麻薬関連のニュースは黒人が読めばいいと演説し会場の笑いをとる。彼自身はこれらの発言は「軽いジョーク」とするのだ。

また、彼は9ヶ月の娘に「混血児たちを尻目に彼女(娘)は星のように輝いている。私はアーリア人種、ユダヤや非国教徒ではない。ジャマイカの猿と結婚するわけもない(本編字幕より)」と歌って聴かせていた。

これでいても、アーヴィングは差別主義ではないと主張する。筋金入りだ。

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映画が公開された後、リップシュタット本人へのインタビューで彼女は以下のように述べている。

「米シャーロッツビルで集会をした人たちも『私たちは人種差別主義者ではない、白人の居場所が必要なだけだ』と言う。でもそれは米国がかつて『分離』という形で経験したこと。白人の居場所がほしいというのはつまり、黒人はいらないということ。彼らは人種差別を、理にかなったものに見せかけているだけ。否定論者は『否定』という言葉も使わず、『ただ歴史を正したいだけだ』と言う。まるで羊の皮をかぶった狼のようだシネマニア・リポート

ごもっともである。このインタビューで彼女は、裁判の証言台に彼女自身やサバイバーが立たなかった弁護団の戦略について、もし同じように証言してしまったら、「噓をついている人たちと私たちが同じ土俵に乗ることになる」と述べている。


差別主義者に対して「差別があるか/ないか」で論争をすることはできない。歴史否定論者とは議論はできない。先に述べたことで言うならば、算数の世界で「1+1」が「=2」ではないとする人と、「1+1=2」の証明が確かなものかどうかなんて語り合えない、とでも説明できるだろうか。論点も違えば次元も違う。

それでいて、同じ土俵に乗ってしまったら、「お話にならない話」が「議論の余地あるもの」になってしまう。



この映画は実際の出来事を映画にしたものだ。歴史の授業で見てもいいくらいの作品だ。リップシュタットがインタビューで「メディアも『嘘は嘘』だと言わなければならない」と述べている。本当にそうだと思う今日この頃だ。ワクチンのデマなんて顕著な出来事だ。「嘘」も言い続ければ「本当になる」というのが現代である。嘘は嘘、デマはデマとして断罪していかなければいけないように感じる。

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