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「一言語 = 一国家」ではないインド

インドは大きな国だ。地域が変われば、話す言語も文字の形も全く違う。


3月9日、第1セメスターの学生向けの式典が大学の庭で行われていた。

私と同僚ら、その他の友人らは式典が行われている庭と少し離れた木の下のベンチに座って、寮行きのバスの出発を待ちつつダラダラと時間を過ごしていた。式典が終わるまでバスは出発しないとのことで、最終的には5時間ぐらいなんでもない話をしながら過ごしていた。


私は日本語が母語だ。そのとき一緒にいた同僚女性はテルグ語が母語、ふたりの同僚男性はマラヤーラム語が母語だ。それに加えて、一緒にいた友人らは同僚男性の友達でみんなマラヤーラムが母語だ。


式典の準備が整い、司会進行が式の開催のアナウンスをした。
ヒンディー語で。

すると、同僚男性の友人のひとりが

「Speak English!!!」

と大きな声でヤジを飛ばす。

どんなに大きな声で叫んでも木の下のベンチから庭までは距離があるため、絶対に聞こえない。それもあいまって、一緒にいた人たちみんなでそのヤジに笑う。

「ヒンディー語で話されてもわからないよ」と彼が言うと、そのとき居合わせた人たちの多くが同意した。


式典では偉い人たちが順番に挨拶(スピーチ)をしていく。どれもヒンディー語で話していた。お祝いの詩を歌っていたグループはグジャラーティ語の詩だった。最後の学長の挨拶は力のこもったヒンディー語だった。

同僚女性に「どんな話をしているか理解できる?」と聞いてみる。
彼女は「わからないよ」と答える。

式典への出席者らはスピーチの途中で拍手をしていた。
「どんな話してるか理解できないのに、拍手はできるの?」と私が尋ねると、彼女は「まわりを見て拍手するか、拍手はしないでおくかだね」と笑顔で話す。


このようにここがインドであっても、ここが大学であっても、みんながみんなヒンディー語が理解できるわけではない。また、ヒンディー語が母語である人が多いわけでもない。教育課程でヒンディー語を勉強した人たちはいるため、とりあえずの言語としてヒンディー語で話しているときはある。


他方で、大学の授業は英語だ。同僚らとなにかを話すときはいつも英語で、みんなに伝えなければいけない重要な話は英語でする。もしかすると、この式典の公共性を高めるのであれば、ヤジを飛ばしていた彼の意見を汲み取って、ヒンディー語ではなくて英語の方がよかったのかもしれない。


話は変わって、このnoteを書こうと思ったきっかけがふたつある。

ひとつは「国際母語の日」のことだ。
2月21日が「国際母語の日」のようで、それに関する画像のツイートを見かけた。

もうひとつは、ロシア語・ウクライナ語のことだ。
ウクライナの首都の地名をロシア語発音に由来する「キエフ」と表記するのがいいのか、ウクライナ語発音に近い「キーウ」とするのがいいか、の話だ。


どちらの話にも共通するのは「「母語」がなにか」だ。
しかしながら、ひとつの国家にひとつの「母語」があるわけではない。

インドを事例に考えると、式典をするにしても何語で話すのがこの場面では適当なのかを少し考える必要がある。
公共性を高めるために英語でするのか、ヒンディー語でスピーチをしても理解できる人は多くはないだろうが、ではこの地域の言語にするのか。この地域の言語にしたら、話せる人も理解できる人もぐっと減少する。
そうであるならば、自身が一番力強くスピーチができるヒンディー語を選ぶ、というのが今回は適当なのだろう。

留学生以外はみんなインド人だ。しかしながら、それぞれ母語は異なる。
いやはや、「一言語 = 一国家」では全くない。


「キエフ」か「キーウ」か、どちらで表記するのが「いい(良い)」のかは、私は判断する立場にはない。誰にとっての「いい(良い)」なのかをまずは考えるべきだろう。

少なくとも「母語」には配慮が必要だ。「国際母語の日」に見かけた画像にはその配慮が欠けているように感じた。

ひとつの国家にひとつの「母語」があるわけではないし、「一言語 = 一国家」でもない。インドでは毎日の生活のいろんな場面でこれをしみじみ感じるのだ。

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