「高コンテクスト文化」のおごり。
日本語は「高コンテクスト」だと、往々にして言われる。
以下少々長いが、『日本語教育教科書』第4版での説明書きの引用である。
相手に何かを伝えるとき、お互いの了解事項はできるだけ言語化しないようにするやり方と、伝えるべき内容を正確に言語化しようとするやり方がある。これをコミュニケーションスタイルと呼ぶ。
コミュニケーションスタイルとして、高コンテクスト・コミュニケーションと低コンテクスト・コミュニケーションがある。
高コンテクスト・コミュニケーションは、言語ではっきりと表現されず、多くの情報が環境、状況、非言語的要素に依存することが多く、言語だけではわかりにくい場面が多い。
一方、低コンテクスト・コミュニケーションでは、ほとんどのメッセージをはっきり言葉で伝え、明確な描写がなされ、曖昧性がなく、具体的なコミュニケーションが好まれる。
高コンテクスト文化の中ではお互いの既有知識が重要視され、伝達する内容を全て言葉で表現することは好まれない。
日本語は「高コンテクスト・コミュニケーション」だから、日本人ははっきり何かを語らずして、お互い既に知っている事項で了解できる。そのため、日本語を学ぶ時には言葉以外のことを知る必要があり、また、他の言語を母語とする人たちと話をするときは、具体的な話をすることが円滑なコミュニケーションを生みだす。
と言われている。
本当にそうなのだろうか?日本語を母語とするもの同士であれば、多くを語らずしてお互いに理解しあえるのか?
本記事の見解としては、
こんなのは嘘だ。
である。
もちろん、例えば毎日一緒に暮らしている家族に対して、
「あれ、どこいったけ?」
と聞けば、おそらく、
「あれ、あそこにあったよ」
と「あれ」が何かを明確にせずとも「あれ」は「あれ」で伝わることもある。
そういうこともある。
しかし、それ以上に、
「あれって何?」
となるほうが圧倒的に多い。
家族や恋人同士でも同僚や友人とでもそうだ。
「言わなくても伝わる」
なんていうのは大体嘘だ。伝わってなんかいない。なんとなく伝わっているような振る舞いができているだけだ。
そもそも、他人同士が互いに理解し合おうという場面で、「言わなくてもわかるでしょ」は禁物だ。
何かを伝えようとして話をしても、100%伝わるとは限らない。
だからこそ、なおさら、言わないとわかるわけがない。
「察してくれ」「言わなくてもわかるでしょ」は「高コンテクスト文化」に住んでいると思っている人たちのおごりだ。
所詮は他人同士。心の底から理解しあえることは不可能であることを合意した上で、お互いに努力し合うことが、円滑なコミュニケーションを生むのではないだろうか。
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