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銀の鯨 第五話

あの夏の日の情景


 真夏の太陽が照り付ける浜辺は、子どもたちの歓声であふれていた。
 白砂の美しい、この島一番の海岸だった。
 地元の者や観光客で賑わっている。 
 初めての島の海を満喫させようと、母は今日、幼い誠をここに連れてきた。
 後から祖父も舟でこちらに向かうことになっていた。すぐ近くの漁港に昼には来てくれと言っていた。
 祖父は誠に舟を見せたかったのだ。舟に乗せてやるとも言っていた。
 誠は楽しみにしていた。
 そしてまた舟に乗った誠の姿を写真におさめ、入院している曽祖父に見せてやるんだとも言っていたのだ。
 
 子どもたちが砂浜の一角の岩場で遊んでいた。
「行っておいで」と母に促されたが、人見知りで臆病な誠は知らない子たちのところへはなかなか行く気になれなず、それでも、みんながそこで何をしているのか気になって、ぐずぐす行ったり来たりしていた。
 母はそんな誠を見向きもしなかった。母にしてみればそれはあえてしていたことではあったのだが。
 浜に着いたとき、ばったり会った知人の男性と母は話し込んでいた。彼は母の「幼馴染おさななじみ」だった。
 誠が振り返り振り返り目をやると、母はやけに楽しそうに見えた。
 父よりも小柄で細い身体のあの人は、父よりも母をよく笑わせている。
 こんなに楽しそうな母を見たことがないと思ってしまうほどに。
―――母さんの邪魔をしちゃいけない。
 誠は勇気を振り絞って岩場へ向かった。

 そこは天然のプールのように浅くて広い窪みがあった。ちいさな子たちが遊ぶにはもってこいの場所だった。
 その中を黄色い魚が何匹もチロチロ泳いでいる。波が寄せるたびに海水が動き魚が出たり入ったりしている。
―――かわいい。めちゃくちゃ、かわいいな。
 もっと近くで見たいけれど、歓声を上げる子たちの後ろからそおっと覗き見るのが精いっぱいだった。
「おい、お前、じゃまなんだよ」
 いきなり大きな子に押され砂浜に転げ落ちた。
「いっ、たあ、」「なんだよ、え、なんか文句でもあるのかよ」
 顔を上げたが相手の剣幕におされ誠は何も言えなかった。そこへ、
「おい、やめろよ、こいつだって、見たいんだ、入れてやれよ」
 誠の腕をとって立ち上がらせてくれた者がいた。
「だいじょうぶか?へいきか?ほら、こっちからも見えるぞ」
 そこにいる誰よりも年かさの子だった。
 その子が岩場の反対側へ連れて行ってくれた。白いランニングシャツに紺の海水パンツ、額には水中メガネの少年だった。
「泣かなかったな、まこと、えらいな」と少年は言う。
 まったく知らない子だったから驚いた。
「なんで、なんでぼくのなまえ、しってるの?」
「オレはなんだって、知ってるぞ。
 おまえ、鯨が好きなんだってな」
 母さんかお祖父ちゃんにでも聞いたのだろうか。
 不思議だったが、急にお兄ちゃんができたようで誠は嬉しかった。
 一人っ子の誠は兄や姉のいる子たちが羨ましかったのだ。少年は、
「でもな、いいか、もう少ししたら、山から大きな雲が下りてきて、海が荒れる。港の昼のサイレンが鳴ったら海から離れろよ。今日は特別荒れそうだからな」
 ギラギラ太陽が照っているというのにそんなことがあるんだろうか。見回しても雲ひとつないのに。と思っていたら、少年はもったいぶってこんなことも言った。
「でな、その雲の中にな、たまに見えることがあるんだ」
「なにが見えるの?」
 少年はにやりと笑った。
「鯨だ、鯨。銀の鯨」
「くじら?くじらのかたちの、雲?」
「いや、銀の鯨さ」
「ぎんのくじら」誠は呟いた。
「ウーウーウー」
 港の方から大きな音が聞こえてきた。サイレンが鳴ったのだ。
「まこと、お祖父ちゃんが待ってるから、行こう」
 思いがけずすぐ後ろに母が来ていた。あの彼もいた。
 祖父との約束の時間だった。
「さあ、港へ行こうか」母がまた声を掛ける。
 誠はさっき聞いた話しを母に教えてあげようと思った。
「かあさん、あのね、ぎんのくじらが見えるんだって、このおにいちゃんが、あれっ、あれれれっ?」
 振り向くとそこに少年の姿はなかった。
 お昼の時間に子どもたちは次々海から上がっていく。
 母は幼馴染の彼に笑顔を向けながら歩き出していた。
「おい、あれっ、あれを見ろ」誰かが声を上げた。
 前にいた人々が一斉に空を見上げる。つられて見上げた母はそこに山にかかる大きな雲を見た。早回しのように灰色の雲が辺りに広がり一瞬にして暗くなった。
「真由美、急げ、なんか怪しい」
「誠、雨になりそう、早く、おいで」
 てっきり付いて来ているのだとばかり思っていたのに、振り返った先に誠の姿はなかった。
「えええっ!誠!」母は悲鳴をあげた。

「銀の鯨が見える」と、少年はいった。
 空の上なのだから鯨の形をした雲なんだろう。
 まさか本物、だなんてことはないだろう、だって空の上なんだから。
 でも、どれくらいの大きさなんだろう。この前幼稚園で作ったお神輿みこしくらいかな。わざわざ教えてくれるくらいだから、きっともっと大きいのかも。
 ワクワクが止まらなくなった。
 そして誠は、その銀の鯨が見たくて見たくてたまらなくなっていた。
 祖父との約束なんてとっくに頭から消えていた。
 岩場をまわりこんで海側に立ったら風にあおられた。
「あぶない、」後ろから腕をつかまれその場にしゃがみこんだ。 
 いつの間にか空は一面灰色の雲に覆われ風が吹き荒れていた。
 今の今まで穏やかだった海は波が逆巻く嵐になっていた。
「なんだよ、まこと、海からはなれろっていったのに、」
「あ、えっと、おに、いちゃん」「ああ、オレはヒデ、ヒデっていうんだ」
「ヒデ、にいちゃん?」「ヒデ、ヒデでいいよ」
「うん、じゃあヒデ。
 くじら、くじらの形のくもって、どくれくらい大きいの?」
「おまえ、ホントに鯨が好きなんだな。」「うん」 
「しょうがねぇなぁ、ここじゃあぶないし、
 よしっ、じゃあ鯨がよおく見えるとこへ行こう」
「つれてってくれるの?」
「ちょっとだけだぞ」
 ヒデは、へへんと鼻をかいた。まかせろということなのだろう。
「よいしょっと」ヒデが何かを手繰り寄せた。ロープだ。
 誠は気付かなかったが、岩にロープがくくられていたのだ。
 岩陰からゴムボートが現れた。
 ゴムボートはもうすでに大波にもまれて頼りないが、誠はヒデに助けられながら乗り込んだ。
「いいか落ちないように、しっかりつかんどけ」
 しっかりつかんどけと言われても、どういいう体勢になったらいいのかよく分からない。とりあえずボートの中にある仕切りを掴んで一応身構えた。
 ヒデはこの荒波の中をこのまま漕ぎ出すのだと誠は思った。
 ところが、
 一瞬キラッと二本のオールが輝いたと思ったら、ボートが上へ上へと浮き上がっていくではないか。
「ボートが、ボートが、あがってく?」
―――えええっ、そらに、そらにあがってくの?
 誠は振り出してきた雨にも構わず空を見上げ、そして周りを見回した。
 海が下へ下へと下がっていく。ボートは上へ上へと上がっていく。 
「うっ・・・」思わず目をつぶった。雲に突っ込んでいく。
 しばらく目を閉じていた。
「ひゅうひゅう」風の音が耳をかすめていく。湿った空気が体をなぶる。
 海水パンツとTシャツしか身に着けていない。
―――さむい。さむいな。 
 どれくらいそうしていたのだろうか。いきなり暖かな空気に包まれた。
「だいじょうぶか、まこと。ほら、見てみろよ」 
 ボートはいつしか厚い灰色の雲を突き抜け、空高く舞い上がっていた。
 高い空の上から見えるのは、陽の光に輝く真っ白な雲の絨毯じゅうたんだった。
 振り向くと島の中央の山々の山頂部分が見えている。
 遠くに水平線が弧をえがいている。空と海との境目だった。
 眼下の雲が大きなうねりになっている。
「くるぞ!」ヒデが叫んだ。
 誠はまばたきもせず、ヒデの指さす方をじっとみつめた。
 ゆっくりと何かがせり上がってくる。
 ゆっくりゆっくり、鼻先が突き出たと思うとみるみるうちに全身が現れた。
 まるで大海を泳ぎ回ってひと休みするかのように雲の上にその体を横たえた。キラキラ銀色に輝いている。
 銀の鯨だった。
 黒い瞳がこちらを向いた。
「あああっ、」誠はそれ以上言葉が出なかった。
―――ほんものの、くじら、だ。
 ヒデはオールを漕ぎ鯨に近付いていく。
 誠は息を呑んだ。
 雲の上をふたりのボートと銀の鯨がゆったり漂っている。 
――空にも海があるんだ。
 誠はその美しさにため息をついた。 
「陸にも海にも生きるくじら。なら空だって、
 空の海だって泳げるに決まってるんだね」とそう呟いた。
 一度雲に潜った鯨は、すぐに垂直に頭を上げてドオーンと身を躍らせた。
 空中に跳び、尾をくねらせ雲海にダイブする。
 ああなんてきれいなんだろう。ふたり顔を見合わせる。
 何度目かのジャンプとダイブの後、徐々に海上の雲が途切れてきた。
 海の青さが広がっていた。雲はもう山並の上だけになっている。
 太陽はうんと傾き地平線へ落ちるところ。
 夕焼けのオレンジ色が鯨を照らしていた。
 夜が近付いていた。

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