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『鬼の夜ばなし7 笑う、鬼』

 これは、ぼくのおじいちゃんが子供の頃聞かされたお話し。
 おじいちゃんのそのまたおじいちゃんに起こった出来事だという。
 そのおじいちゃんの名前はツトム。十歳くらいの頃のことだった。

 ツトムには、ケンジというもっとちいさな弟がいた。
 ある時、母親が病気で入院し、そのうえ仕事が忙しくなってきた父親は、頼る者もないまま子どもたちの世話に困って、遠くの親戚の家にふたりを預けることにした。
 まだ車のある家は限られていた時代だったから、電車とバスを乗り継いで、ふたりを連れた父親はその親戚の家に向かったのだった。
 
 たどり着いたのは、見渡すかぎりどこもかしこも杉林の山の麓だった。
 木々の間から見え隠れする大きな古い家に、腰の曲がったお爺さんとお婆さんが迎えてくれた。
 弟ケンジは呆然と立ち尽くし、兄のツトムは昔ばなしのお話しの中に入り込んだような気がしてめまいがしていた。
 父親はその夜ひと晩だけ泊まり翌朝早く帰っていく。兄弟ふたりを振り返り振り返りする姿をツトムはずっと忘れられなかった。
 
 親戚とはいえ、これまでまったく会ったこともない、見知らぬ土地の見知らぬ人たちだったから、ふたりはなかなか馴染めず、気が休まることもなかった。
 それでもしばらくすると、飼っているニワトリの世話や畑仕事など、お爺さんお婆さんを手伝うようになっていった。
 お爺さんもお婆さんも、それはそれはとても優しい人たちだったから、ツトムもケンジもおだやかな時間をすごすことができていた。

 ところがそんなある日の夜のこと。
 眠りについていたツトムは、どこからか聞こえてくる泣き声にふと目を覚ました。
 暗闇の中でしくしく泣いているのはどうやら弟のケンジのようだった。
「ケンジ、ケンジか?どうした、」
 枕元の灯りをつけたツトムは驚いた。
 となりに寝ているはずのケンジがいない。障子も半分開いている。
 トイレにでも行ったのかと部屋を出てみると、暗闇の先でまた泣き声がする。

「ケンジ、おしっこか?トイレ、わかんなくなったのか」
 ツトムはお爺さんたちをおこさないように、小さく呼びかけそっと廊下を進んだ。
 この家はやたらと大きくていくつも部屋があり、おまけに昼間でも暗い。
 ツトムもケンジも迷ってばかりだったから、ケンジはどこへ行くにもツトムと一緒だったのだ。なのに今夜はどうしたことだろう、ひとりで出歩いてしまったようだ。
 
 廊下の角を曲がるとすぐ裏口だった。そこからガタガタ風の音がする。
 戸口のすき間から外の明かりが細く見えた。裏口が開いている。
 泣き声はその向こうからだ。ツトムは外へ出た。 
 満月が、こうこうとあたりを照らしていた。
 
 この先の裏山へ続く細い道の向こうにケンジの後姿が消えた。
「おい、どこへいくんだ」あわてて後を追った。
 そこは入ってはいけないといわれている場所だった。おまけにこんな夜更けにいったいどうしたというのか。

 木の根や下草に足をとられ転びそうになりながらも追いかけ、やっとのことで弟の肩をつかんだ。
「ケンジ、どうした、ねぼけてるのか。おい、いったいどこへ行くつもりなんだよ。」
「にいちゃん、ぼくおうちに、かえる。おとうさんと、おかあさんとこに、かえる。」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔が月の光に照らされた。
 
 父と母の夢でもみたのだろうか、「家に帰る」とくり返す。
 ずっと聞き分けのいい弟だったが、幼い胸には我慢の限界だったのだろう。「ぼくらのおうち、この山のむこうだよ、にいちゃん」という。
 ツトムは大きなため息をつきくちびるをぐっと噛みしめた。同じように泣いてしまいそうになるのをこらえた。そしてわざと怒ったように。
「ケンジ、家はこっちじゃない。それにお母さんはまだ、病院だ。
 お父さんが迎えに来てくれるのを待ってなくちゃだめなんだよ。
 ここは入っちゃいけないって、いわれてたじゃないか。
 さあ、お爺さんとお婆さんのとこへ帰ろう」
 
 そこへどこからかカサカサ草を踏む音がした。狐か狸か、そんな獣でもいるのだろう。目を向けたその先に木々の間からこぼれる光が見えた。
「なんだろう」
 吸い寄せられるように弟の手を引いて兄はゆっくり足を踏み出した。

 池があった。
 月の光に輝く緑の大きな池。黒々とした森の中に、ひっそり隠されているような池だった。
 月明かりに輝く水面を風が渡っていく。水草がゆっくり揺れている。絵画の中に迷い込んだようだ。
 池の美しさにツトムもケンジも息を飲んだ。
 見とれているその時またガサガサと、今度は大きく草をはらう音がした。

 池の向こう、ちょうどふたりの真向かいに何かが姿を現した。
 月に照らされたその姿は、異様だった。
 どこかで目にしたような気もするがどこだっただろう。
 赤黒い大きな体の頭にツノが二本、口の端に牙が二本、太い棍棒を地面に突きたて鋭い視線でこちらを眺めている。獣のような顔は人のようで人ではない。
 ふたりはそこから目が離せなくなった。
 
 先に思い出したのは弟のケンジだった。
「にいちゃん、あれって・・・、」
 兄も思い出す。
「う、うん、もしかして、この前、お寺で見た、あれ、だよな・・・」
 ひと月前、近所のお寺のお祭りで見た大きな地獄絵。そこに描かれていた鬼の姿そのものだ。
「ぐるるるる、ぐるるるる、」
 不思議な強い振動をともなう低い唸り声が耳に飛び込んでくる。そして、
「おいおい、こりゃあ、うまそうな人の子じゃねえか」
 にやりと笑い、よだれをたらしながらこちらへ池を回ってやってくる。
 
 足がすくんで動けない。逃げなくちゃと思っているのに体が動かない。
「にい、ちゃん」「う、ん」
 ずしんずしんと、棍棒を地面に打ち鳴らしながら近づいてくる。
 威嚇いかくしてとことん怖がらせているのだろう。どこか面白がっているようにも見える。
「にいちゃん」
 弟は兄の手を強く握った。とたんにはじかれたように兄は弟の手を引いて駆け出した。

 やみくもに走り出したが、すぐに帰る道がわからないことに気が付いた。
 この池までどこをどう通ってきたのかまるで見当がつかない。
「どこ、どこなんだろう。帰る道は、いったい、」
 来た道を探しながら駆けた。
 ツトムはあせった。あせりながらふと見ると、むこうのあいつは、いつの間にか反対方向に駆け出している。
 あわててツトムも向きを変えた。今来た方へ戻った。
 するとまた相手は向きをかえて走ってくる。
 あちらとこちらで池の縁を行ったり来たりの、鬼ごっこ、本物の鬼ごっこが始まっていた。

 どれくらいそうしていたのだろうか、
「にい、ちゃん、ぼく、もう、だめだ」
 ケンジの足がもつれてきた。ツトムも息が上がってきていた。
 立ち止まり肩で息をしながら反対側を見てみると、どうしたのか、鬼は膝をつき池に顔を近づけ水を飲み始めていた。あいつも疲れたのだろうとツトムは思った。
 
 とろこが、水を飲み込む勢いがすさまじく、信じられない速さで水がなくなっていく。あっという間に、ポンプで汲み上げているようにどんどん池の水が消えていく。もうそこにふなや亀の背中が見えてきた。
 そう、鬼は走り回っているより、池の水を空にして直接渡ってこようとしているのだ。
 
 ツトムはぞっとした。早く帰る道を探さなくては。だが、はっとした。
 いや、今お爺さんとお婆さんのところへ帰るのは、もっと危ないことになるのではないか。後を追ってきたこの鬼がふたりに何をするかわからない。
「どうする、どうしたらいいんだ」さらにあせった。
 と、その時
「にいちゃん、おしっこ、」ケンジが叫んだ。
「えっ、そんなこといったって、あれっ、」そういえば自分もなんだか。
 走り回って熱くなっていた体は、立ち止まっている間に冷えたらしい、ツトムもなんだかもよおしてきた。
「ええいっ、もうしかたない、ここでしちゃえ。」
 鬼が気がかりだったから、鬼を見ながらふたりは、池におしっこのアーチを繰り出した。
 
 それを見た鬼はといえば、
「うっ、はっはっはっはっはあ、」
 豪快な笑い声がそこら中に響き渡った。
「うはははははあ、うはははははああ、」
 そのたびに飲み込んでいた水は噴き上がり、池にもどっていく。
 まるで噴水だ。水は月の光にきらめき虹も見える。
 夜の虹はすぐに消えていった。
 と同時に、ふっと、鬼も消えてなくなった。
 そこには、何事もなかったかのように池の水面が揺れて、そして、呆然と立ち尽くす兄弟の影だけが伸びていた。

 その後ふたりはどうやって帰ってきたのかまるで覚えていなかった。
 気が付くといつの間にか、裏口の前に、ふたり肩を寄せ合いうずくまり眠っていたのだ。
 その夜のことは、夢の中の出来事のようにぼんやりおぼろで、目が覚めたとたんに忘れ去っていた。寝ぼけていたのだろう。ふたりともそう思っていた。
 
 しばらくして、母は元気になり父が迎えに来た。ようやく晴れて兄弟は家に帰っていった。
 だが次の年、今度はケンジが病に倒れあっけなく亡くなってしまった。
 ツトムは、弟の死の間際、他の者が目をそらしたほんの一瞬、自分にだけ見せたその表情に凍り付いた。
 鬼のように目をぎらつかせ、こちらを見たのだ。
 頭に角、口元に牙が見えたような気がした。恐ろしい怒りの形相、その激しさを感じるものだった。
 ほんのわずかのことで、すぐに安らかな顔に戻っていたから誰もそれに気付かなかった。
 
 そして、あの夜の鬼を思い出した。
 優しい、健気けなげな弟だった。
 母にも父にも、もっと甘えたかっただろう。学校にも兄と通いたかっただろうし、人見知りしない弟は、きっとたくさん友だちもできただろうに。
 人は不条理な身の上に置かれたとき怒りで鬼になるのだと、ずっと後になってツトムは思った。
 家族を悲しませる辛さ、もっと生きていたかったという思い、そして、なぜぼくがというやるせなさ、それらが強い怒りを生み、鬼を呼んだのではないかと。
 人は誰でも鬼になる。兄はそう思ったのだ。

 大人になった兄のツトムはひとりあの親戚の家を訪ねていた。
 だが、もうその家は跡形もなく、杉林でさえなくなっていた。
 裏山らしいところにも分け入って池を探してみたがみつからなかった。
 その後何年もかけて探しまわったのだが、結局何もみつからなかった。
 
 大晦日の夜、おじいちゃんからこの話を聞いたぼくは、緑の池のそばに立つふたつの影を夢で見た。そうして誰かの笑う声を聞いたような気がした。
 その池へ一度行ってみたいと思った。

 了


・「鬼が笑う」という昔ばなしがあります。色んなパターンが各地に残っているのですが、現代風にアレンジ創作してみました。
『鬼の夜ばなし』シリーズはこれにて完結です。
 まだ他にも知られていない物語がいくつもありいつかまた私の物語として発表できたらと思います。
ご高覧たまわりありがとうございました。



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