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知育玩具より知育教育【過去の回想1回目】

3~4歳ごろ、ニューブロックのおもちゃで遊んでいた。
ブロックを入れるケースも、画像のようなしっかりとしたプラスチック製のモノではなくて、フニャフニャの円柱のケースだった。いつもケースを右手に持って歩いていた記憶がある。


そのころ人口1万人の町に住んでいた。
ある日、その田舎町を出ていった。
まだ幼かったので記憶は断片的で、出ていったというより、気づいたら大都会の駅にいた感じだった。


田舎の閑散とした駅とは違い、そこは全てが違う場所だった。都会の駅は、コインロッカーが壁のようにあり、人が波のように流れていた。なにしろ全てが大きく感じた。

人混みのなか、手を離すと迷子になるからと、左手はぜったい離さないように母の右手を握りしめて、もう片方の自分の手は、命の次に大事なブロックをギュッと握りしめていた。
そして、母の背中には、2つ離れた弟が、たえず地蔵のように眠っていた。

そのころは、ただの旅行くらいに思っていたが、よくよく母に聞いてみるとそれは、夜逃げだった。

初代父親は、定職に就かず、ひなが1日ブラブラしていたらしい。一家の主が働かない、わが家は生活に困っていた。
お金もなく、車もない母は、若さと(当時22,3歳)子ども二人を武器に意を決して、都会へヒッチハイクで向かったとのことだ。
そして、都会の地に着いたその足で、当時の職業安定所(ハローワーク)に出向き。
『子ども二人で住み込める仕事は無いですか』と聞いたらしい。

自分の記憶に残っているのは、この都会の地に着いたところからの思い出なんだろう。

コレだけを聞いても、一昔前の昭和40年代の話かと思うくらいの話である。

職業安定所で仕事を探したが、最悪か、最良か、わからないけれど住み込みの仕事は無かった。結局このときは、都会での働きを諦め、家族3人で田舎へ帰った。



このときの記憶でとくに鮮明に覚えているのは、「家に帰れるように、迷子にならないように道を覚えておこう」だった。日頃と違う雰囲気を察して、文句も言わずに、歩きながら道を覚えるのに必死になっていた。

おさな心でも、どうにかしようと頭を使ったのだ。

右手の知育玩具より、かなり実践的な知育教育だった。
人間、追い込まれたときに、チカラを発揮する。
そんな体験は、少なからず覚えているものだ。
自分の限界を超えたときに、人は成長するのだろう。

だから今でも、道を覚えたりするのが得意なのは、このときの影響なのかもしれない。

つづく




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