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寒気(3280字)


 毎日、仕事は五時に終わる。そこから二十分程歩いて季節労働者たちにあてがわれた寄宿舎パンシオンへと戻る。蒸し暑い夏の夕暮れは、規則的で退屈な日々に対して余計なことを考えさせる。だが工場で働くことで俺は金を稼いでいるのであり、生きるということはそういうものであることはわかっていた。この数か月を終えて故郷に戻れば恋人にプロポーズする予定だ。指輪を買うのにも式を挙げるにも、とにかく生きるのには金がいる。それを稼ぐことは最低限の役目だ。
 工場で何を作っているかはわからない。どの製造ラインに入っても分厚いヘッドフォンをしなければならなかった。就業上の規則だ。業務関連や休憩の連絡以外のときは両耳から電子音が流れている。集中力を高めるためのものらしいが、最近は寮の部屋に戻ってからも頭のなかで流れ続けている気がする。おかげで仕事が終わった気にならない。今の仕事は、前工程から次々と流れてくる四角の硬い何かに対して、電気工具を使って四隅を釘で固定することだった。それを八時から五時までやり続ける。正午になるとベルが鳴り、昼食の時間になる。食堂に着くころには既に昼食が並べられていて、順にトレイを取って席に座る。毎日出てくる灰色のパンのようなものは、何ともいえぬ油臭い味がして、ただ咀嚼をして胃袋に溜めるだけだった。たまに冷たいゼリーが出ると全員が喜んだ。
 工場から寮までは長い一本の道が続いていて、コニャックの空き瓶があちこちに捨てられている。舗装されていない砂利道のため、拳ほどの大きさの石に時折つまずくことがあった。詳しくは知らないが工場へ入っていくトラックの荷台から落ちたもので、蛙の皮膚のような色をしていた。道路の両脇には細い樹木と街灯が交互に配置され、外側をフェンスが囲んでいる。そこを俺たちのような者たちが端に寄って歩く。かつては道全体に散り散りになって好き勝手に歩いていたらしいが、一度トラックが歩行者に気づかず轢いてしまったことがあり、それ以降はみな一列で端を歩くようになった。
 歩いていると、蒸し暑さが増していく。立ち止まり額の汗を拭っていると、一羽の鳥がフェンスの上に停まっているのがみえた。鳥は美しい朱色の体をしていた。毛並みは幾分乱れていたが目は黒々と生気を帯び、弾くとよく響きそうな硬い嘴を持っていた。よくみると、その嘴は獲物を捕らえていた。蝉だった。蝉は胴体の真ん中辺りが嘴に挟まれていた。両翅と肢を懸命に動かし必死に逃れようとしている。鳥はその様子を気にとめることもなく遠く工場の方向を見つめている。物思いにでも耽ているように感じられた。蝉は懸命に声をあげて体をねじる。その甲斐あってか、鳥が嘴を緩めた一瞬の隙に蝉は死から逃れ空を舞った。だが、片方の翅しか残っていなかった。そのために上手く飛ぶことが出来ずフェンス沿いに落下した。鳥は蝉を諦めたのか何事もなかったかのように工場の方へ飛び去った。今日の稼働時間は終了していたが、煙突からは未だ煙が上がっている。蛙の皮膚のような色の煙……何を作っているのか俺たちにはわからないし、きっと知る必要もないのだろう。蝉が草むらから這い出ていた。脚を使い、目の前を這っていく。片翅を失った蝉がこの先どうするのか、果たして生きていけるのか。成虫となった蝉の生涯は一ヶ月ほどだと聞いたことがある。そう考えればこの蝉の生きている意味はあるのか。悶えているようにもみえる蝉は、道路を横断しようと歩みを進めていた。しばらくその様を見つめていると夕立が降り出した。汗と雨の交じった不快な気分が湧き上がり、俺は帰ることにした。足早に歩いていると大型トラックと何台もすれ違った。土埃を吸わないように汗ばんだ外套で顔を覆う。石がいくつか落下し、砂利道を転がっていた。

 担当する仕事が変わった。製造ラインの工程から、特別手当が出る清掃班への配置転換だった。俺が割り当てられたポイントは工場の煙突周りだった。マスクとゴーグルを支給され、清掃用のバキューム機器を背負う。螺旋階段をのぼり屋上に出てみると、巨大な一本の煙突がそびえ立っていた。見上げるとあの煙が噴き出ている。近づいていくと柱の周りに何十体もの鳥の死体があった。鳥は砕いた飴のように粉々になっていて、日光に反射した死体の破片が眩しい。それらを手順に沿ってバキュームで吸っていく。ヘッドフォンからは相変わらず異常な音楽ダフト・パンクが流れている。しばらく作業を続けているとバキュームから奇妙な振動が伝わってきた。機器を降ろして、なかを調べてみると死体に付着している粘着性の物質が引っ掛かっているのを発見した。それを剝がそうと近くにあった棒を差し込む。〝寒気〟に気付いたのはその時だった。
 いつからかわからないが、工場で働くようになってから得体の知れない寒気が度々、湧くようになっていた。はじめは南方からきた自分の体が気候に慣れていないだけかと思ったが、寒気を訴える者は他にもいた。俺は作業着のポケットからコニャックを取り出して一口飲む。工場の名前が印字されたこの酒瓶は先月から配られるようになっていた。マネージャーの説明では、工場の売上が好調らしく労いの意味も兼ねて工員たちへの支給が決定したとのことだった。コニャックは俺の寒気を紛らわすだけでなく、労働者の空気も明るくした。そんなときの俺たちはハイな時間を過ごした。だが、今日は一口飲んでも寒気はおさまらず、何とも言えぬ皮膚のざわつきが内側からボコボコと湧き続けた。気のせいだと思うようにしたが、目の前に転がる鳥の破片をみるとそれは子供だましのような気もした。呼吸をする度に体から汗が出る……悪寒は止まらなかった。残っていたコニャックをすべて飲み干し、座り込んだ。屋上からみえる景色は遠くまであの煙で覆われ、絵具をそのままキャンバスに塗りたくったようなのっぺりとしたものだった。靄の奥に微かに動くものがみえた。恐らく野鳥の群れが飛んでいるのだろう。聞きなれた電子音楽に合わせ呼吸を整える。ようやく立ち上がったとき、空から鳥が落ちてきた。鳥は屋上のコンクリートにぶつかった衝撃で、割れたガラス細工のように粉々になる。俺は眩暈がしながらも、バキューム機器を背負い直し、それを片づけはじめた。結局、すべての鳥を片付けるのに何時間もかかった。だがマネージャーから文句はいわれなかった。帰宅すると熱い湯を浴びて布団の上に寝転び、そのまま毛布にくるまった。目を閉じて新婚生活と恋人との愛の絆を想像し、夜を越すことだけを考えた。朝、目を覚ますと寒気はおさまっていた。翌日も、その次の週も、俺はバキューム機器を背負って屋上に出た。寒気にも次第に慣れていった。工場勤務最後の日、マネージャーは惜しそうな口ぶりでこれまでの俺の勤務態度を褒めた。次の年も来てほしいといわれた。

 半年ぶりに再会した恋人は駅の人混みをぬい、駆け寄ってくると俺の両頬を温かい手で包んだ。「おかえり、私のシェリー。大丈夫? 顔色が悪い、蛙の皮膚みたい」と笑ってキスをした。唇が硬く感じた。季節労働を終えた俺は、それから故郷でトラック運転手の仕事に就いた。そして恋人と結婚し夫婦になった。指輪を買った。式を挙げた。もう工場で稼いだ金はほとんど残っていなかった。
 求人雑誌をめくりながらカーラジオの電源を入れる。北方から越冬するために訪れた渡り鳥たちが繁殖期を迎えたというニュースが流れていた。生まれた雛たちは片翼が欠けていたり、複眼だったり異常がみられるという。その後に天気予報が流れた。この時期にしては暖かい一日だという。突然、体が身震いした。故郷に戻ってもあの寒気は消えなかった。あれはもうすっかり俺のなかに染み込み、一部と化していた。引っ越ししたてのアパルトマンは部屋の壁が薄いと妻がよく不満を漏らした。薄給だから仕方なかった。より良い暮らしを……来月には子どもが産まれる予定だった。もう一回……ページをめくると工場が人を募集していた。【了】

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