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新年飯

新年明けましておめでとうございます。

note開始当時は溜まっていたものを掃き出すかのように、書き綴っていたのだけれど、それが一度落ち着いてからは書くことから少し遠のいていた。そして今また再燃してつらつらと書きたい内容を思い浮かべたりしているのだけれど、自叙欲の掃き出し作業が終わってスッキリしたからか、根っからの食いしん坊からか、大概何を思っても食べものから発展したり、起点が違えど最終的に食べ物につながっていったりしている。

困ったものだ。今年もダイエットとは程遠いかもしれない。

さて年末が近づいたころ、どこからともなく、勝手におせち圧を感じ焦って年夜飯とおせちについて書いたのだが(しかも『つづく』と書いておきながら、年夜飯の紹介を終わらせることなく年越しを迎えてしまったのだが)、私のお正月ご飯の顛末をここで報告させてもらうことにする。

結果から言えば、私は、メニュウを事細かに調べ、作り方をYoutubeで観てイメトレまでしていたにも関わらず、年夜飯を作らなかった。理由は些事さじあるが、何よりも年末にお呼ばれや外食が続いて、私の中の食いしん坊が満足してしまっていたことが大きい。それで大晦日は夫が焼いたステーキと茹でたブロッコリーをつまんで新年を迎えた。年内の買い出しも怠ったために冷蔵庫がすっからかんで、元日に営業しているスーパーを検索し、電車に揺られて数駅先まで家族揃って数日分のお鍋の材料を買いに走ったりもした。

ここまで書くと、自身のなまけゆえに今年も『ものたりない正月』に妥協したのかと思われるだろうが、なんと私はちゃっかりおせち・・・に有り付けたのである。しかも手作りの、である!2日に遊びにやってきた友人が、元日に親族の集まりで食べたおせち料理をお重に詰めて持参してくれたのだ。彼女が作ったもの、彼女のお母さん、従姉妹、叔母さんが作ったものと、いろんな家庭のいろんなおせち料理が3段重に整然と詰まっていた。私は『年夜飯とおせち①』でも書いたように、以前おせちを取り寄せて食べたことはある。そこそこ美味しかったのだろうが、そこに感動はなかった。今回は違う。37歳にして初めて、家庭のおせちを食べて、センチメンタルな気分に陥った。ずっと存在はすぐそこにあって、ほんのりと憧れがあって、でも自分のいる世界とは切り離されている、それが私にとっての『おせち』という日本文化であった。その日本文化の辻褄つじつまがやっと合ったような気分になったのである。

昆布巻きを口に入れては、「これが昆布巻きかぁ」、なますをシャクシャクはんでは、「これがなますかぁ」、煮しめを頬張っては、「これがお煮しめなのねぇ」といちいち感無量であった。取り寄せのおせちでは感じることのなかった感情である。その違いはなんなのだろうか?味でいえば、お取り寄せのおせちは外食の延長線上にある。しっかりはっきりした味付けで美味しいのだろうが、それが家族で新年を祝う場では特別さに欠けるのかもしれない。友人家族のおせちは味付けがやさしく、丸味があり、すっぽりとおさまりが良い。そして、気持ち的なことで言えば愛着なのだと思う。友人とその家族が作ったおせちには彼女達の手塩と愛着が一緒に詰められており、そこに私が持つ彼女への好意がまた愛着となって付加される。この愛着はインターネットで選択肢を厳選して値踏みし、ポチりと購入ボタンを押して届いたおせちにはない。

淡々とおせちを堪能するみんなをよそに、一人やたらにしみじみして友人に感謝と感動の念を伝えると、彼女は「note読んだからね」とにっこりした。なるほどなるほど、本当にありがたい。そして、思っていることを思ったままに書くのも悪くないなとまた一人合点したのでした。

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