見出し画像

『尊厳 その歴史と意味』を読んで

尊厳は人間の最重要概念だろう。

人間の歴史は同一のイデオロギーを持った集団がその尊厳を守るために勝ち取ってきた営みであり、身分、人種、社会的ハンディキャップ、ジェンダー、動物、自然環境とその概念を拡張させている。

いま過激な環境保護活動などを行っている団体に拒否反応を抱いていても、100年後には彼らの主張する感覚が社会的に当たり前になっているかもしれないし、そのうちAIにも尊厳を見出すようになるだろう。

一方で、時代の変化により尊厳を失っていく対象もある。

敵が生きている間に、かれらを拷問したり、貶めたりすることは尊厳の侵害である。しかし、かれらが死んでいたらどうだろう。たとえば、かれらの遺体を埋葬しないままで動物に食べさせたら、かれらの尊厳を侵害したことにならないだろうか。私の意見では、その答えは間違いなく、尊厳の侵害だ、というものである。しかし、その場合、私たちは誰に対して義務を負うのだろうか。誰の尊厳が侵害されているのだろか。(中略)私たちには尊厳をもって死者を扱う義務がある、という難問は、本当に深くて手強いものだと思う。

マイケル・ローゼン 著 , 内尾 太一 訳 , 峯 陽一 訳『尊厳ーその歴史と意味』より

これが難問であるという感覚が大変不思議だった。そもそも死者(もしくはこの場合死体の方が正確かもしれない)であるから対象が存在しないかのような感覚に違和感を覚える。

この違和感は西洋思想の二元論的感覚と日本人の神道的感覚の差異によって生じていそうだ。
しかし、現代社会の傾向として、人間はもとより人間以外の現存するものに対しての尊厳や未来に対しての配慮は拡張させながらも、物質的な存在が終わったものの尊厳に対して敬意を払うという感覚を衰退させているように感じる。

それは目に見えるものが全てという理性主義が行き過ぎた結果が招いた現象だろう。

その現象自体を否定するつもりはないが、自分が死んだあとに敬われないのは悲しいと思う。なんせ玉乃井にいると、玉乃井の文脈にいる亡くなった方々への敬意が色濃く感じられ、どうせ生きたならそのように死んでいきたいと思わせられる。

肉体的に死んでなおそこに尊厳を見出すことができるのは、その人の生き様が尊厳を失わず誇り高かったからだろう。

尊厳とは、尊くおごそかで侵しがたいもの。

「尊厳がある」という感覚が長い年月を経て輪郭を帯び、戦いによって勝ち取られ、人々に浸透し、人権となった。

実体のないそれを、望んで放棄する人はいないはずだ。それにもかかわらずこの世界では、戦争や虐待やいじめといった顕著な尊厳の侵害が存在し、あるいはふつうに社会的な生活をしているようで日々自分の尊厳が侵されているように感じる人も多いだろう。

「生きることは苦である」という仏教の根本思想は真理だと思う。苦の発生源である我と尊厳は近しい概念だ。尊厳があるから苦しいという側面もある。それでもなお無条件に譲れないものが尊厳ではないだろうか。

自分の尊厳がどこにあるか、尊厳を守るために戦えているか、ほかのものの尊厳を敬えているか。

そのあたりに善があると思う。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?