私はいつも物語の登場人物から学んでいるんだと思う話
本noteにおいて、私が見た映画についてのお話が多く出てきます。
もしも仮に、このnoteをきっかけに、ここに出てきた映画に興味を持ち、鑑賞してくださる方がいるのなら、
それはそれで、私としてはとても嬉しいです。
しかし、あくまでここに出した解釈は、
私の主観であり、感想でしかないので、
「この作品の意図は絶対こうだ!」というようなことは全く思っておりません。
同じ作品を見た方がどう感じるかは個人の自由ですので、あくまでご自身の感性を大切にしてくださいね。
その点を、どうかご留意ください。
自分にとって思い入れの深い作品はなんですか?と聞かれたら、はじめは小説や漫画が出てくる。
まずはじめは、タイトルに釣られて小学生の時に読んでいた「ある日犬の国から手紙が来て」だと思う。
人生で初めて漫画シリーズを揃えたと言ってもいい。
もう一つは、本屋にて、母から「これは?」と言われて即買いした「世界から猫が消えたなら」。
読書習慣が根付き始めたのはこのあたりかもしれない。
プリキュアも、仮面ライダーも、ウルトラマンも、みんなが幼稚園の頃に通るようなこれらを私は通らず、憧れのヒーローらしいものはなにもなかった。
記憶にあるそれら好きなもので言えば
まめゴマとか、まめしばとか、あとお茶犬。
アンパンマンとかクレヨンしんちゃん、ドラえもんあたりだと思う。
後者3択に関しては「みんな好きだろ!」と友人に突っ込まれた。
それくらい、自分の中で湧き上がる「これが好き」というのがさほど多くはなかった。
そんな私が本が好きな理由は、
本の世界で、自分の知らない世界を知るのが好き
というもので、それが読書の動機だった。
その後、アニメにハマったときも同じような動機だったし、声優さんから役者さんやお芝居が好きになっていた自分にとって、ドラマや映画を好きになるというのは、ある意味で必然だったのだと今となっては思う。
15歳頃、コウノドリから俳優さんへより興味持つようになり、鴻鳥サクラ先生役の綾野剛さんが出演するというところから知った、実写映画版のドクターデスの遺産。
本屋に自らの足で通えるわけではない私は、
読書家と言えるほど読書家でもないし、原作を存じ上げてなかった。
予告を見て、安楽死の文字を見て「見たい」と欲望を持ち、劇場に行って鑑賞した。
自分から「この映画を見たいから映画館へ連れてってくれ」と言ったのは、アニメ映画以外ではほぼ初めてに等しい。
映画の批評をしたいわけではないので細かな内容は挙げないが、当時の自分には、いろんな部分で刺さるところがあったし、
なにより、クライマックスの緊迫した空気とスクリーンに映る圧巻のぶつかり合いを見て、正直、息が止まった。
映画が終わり、劇場内が明るくなったとき、
久しぶりにとても満たされたような気持ちになっていて、映画を映画館で見る良さを初めて知ったような気がした。
それが、私が映画を映画館で見ようと思い始めた大きなきっかけであり、綾野剛さんの凄さをより感じ、より好きになった日でもある。
そこからしばらくして、綾野剛さんを日々見ていく中で「ヤクザと家族」という作品が発表され、
綾野剛さんのSNSの多くでその作品についての話に触れた。
聞けば聞くほど興味を惹かれると同時に
「大きい音嫌だしな…」とか「ヤクザものって怖いようなやつだよな…?」とか、いろんなことを考えて、日々見るか否かを考えたけれど
予告的にも気になるし、「ヤクザと’’家族’’」の家族という部分がどうしても気になる。
なら、行くしかねぇな…(◜௰◝)
と言うことで見に行くことにしました。
ヤクザ物をまともに見たことなんてないし、
一回ではわからない言葉もあったりした。
音にやや敏感な部分もある私にとって、ビクッとなるシーンがあったり、
音が嫌で耳を塞いでしまう部分もあったけど、
ヤクザ色よりも家族色のほうが私の胸強く浸透して、劇場内が明るくなったときの私は
なんというか…頭も顔もグシャグシャだった。
一言で言うなら、メンタルをえぐられたというか。
あんなに映画で泣いたのは久しぶりどころじゃないくらい泣いた。
救いや希望なのか、喪失や絶望なのか。
自分個人の結末の解釈が纏まらないし、訳がわからなくてパニックでさえあった。
なのにどこか呆然としていた。
帰りの車の中でも、登場人物の心境を考えて数多と頭を抱えた。
そんな自分に、自分自身で驚いていた。
自分の中に、こんな燃え上がるような強い感情をまだまだ取り戻せるのだと。
そうしているうちに、ヤクザと家族を制作した「藤井道人」監督の名前を脳みそが記憶するようになって、
この人の映画をもっと見たい。
他にどんな作品をやってるんだ?
また綾野さんと映像を作って欲しい…
という具合に、いつの間にか片足どころか2足とも浸っていた。
今も抜け出せないどころか抜け出す気がないほど、あの時、ヤクザと家族は深く私に印象づけてきたし、刺さってきた。
ヤクザと家族を見てからの数日、
頭を抱えて考えて、自分の結論に行き着いては変え、また考えては悶える。
そういう時間を何度も繰り返していた。
その時間の自分は凄く満たされていたかもしれない、と今なら思う。
コメディな映画を見てゲラゲラ笑うのも好きだけれど、
「この作品は、あくまでフィクションです」と言われる世界で足掻く人たちのことを深堀していくことが、私は特に好きなんです。
その人物たちからしたら「てめぇの考えに当てはめんじゃねぇ」案件かもしれないけど
深堀して、思考して。
そうやって「こう思ったのかな」とか「こうだったのかな」と自分なりの答えを見つけ出すようにしてから、
浅はかかもしれないけど、
自分の人に対する考え方の幅が広がったように思うし、何か自分にとって「この人嫌だな…」と思うことがあったときも「どういう訳があるんだろう」と考える癖がついたなと思う。
それを大きく体現した、流浪の月という凪良ゆうさん著の小説が原作の映像作品が発表されたとき、
私は、出演者である横浜流星さんに興味を持っていて、いろんな作品を追いかけていたタイミングだったので、
速攻予告を見て、というか何度も見て、
ずっと楽しみにしていた。
けれども楽しみすぎてついに待ちきれなくなった私は、公開前の段階から、存じ上げていなかった原作を手に取り、読むことに。
そこでも、読んでいる当時は無自覚だった「深堀する癖」が大いに出てきて、何度も頭を抱えたどころか、目先のことに集中できずに
お風呂で本作について考え事をしていたら、
見事にシャンプーとリンスを間違えた。(ばか)
(ちなみにそれは出してから気づいて固まった)
そのときに私が考えていたのは、
映画版で横浜流星さんが演じる「亮」のこと。
これは個人的な解釈ですが、
本書の構成が章ごとに主軸が変わるようなものになってるように感じていて、
そのおかげもあって、自然と「誰の目線」とは大きく決めない、ある意味でフラットな視点で見ることができていたんです。
それ故に、物語が大きく転び始めたタイミングに
「まずい。ここから先を読めばそれこそ私は風呂に入らずに寝ることになる」と察して無理やりお風呂に行って、
「違うんだよ、違うんだよ亮…。
更紗や文はこういう時間を過ごしてて、だからこうなってて…けど亮はそれ知らないし、知ることもできない…。
だからそうなっちゃうんだよな。
そういうことしちゃう亮にも、更紗や文に理由があるように、こういう理由と過去があるわけで…辛すぎるよ…なにそれ…」
なんて具合に頭を悩ませていたらあ~なりました。なんにしても馬鹿である。
まぁこれは今でもよくやるんですけどね。
こういう視点は映画になっても変わらずで、
劇場から出てきてもなお、原作と映画、それぞれをそれぞれで思い起こしながら、ふつふつと考えては、当時開催されていた舞台挨拶の動画やインタビュー等、今まで極力おあずけにしてた声を聞いて、いろんな意見が耳に入って来ていたわけですが
映画版で亮を演じている横浜流星さんでさえ、オファー前の自粛期間中にはじめて原作を読んだときは「この男なんだよ!」と思ったと言っているし、映画公開後の見た人の意見を見ていても、
亮は明らか嫌われ者というか、怖がられている意見が多かった。
詳しいことは気になった方それぞれであらすじを調べてほしいのですが、
本作では、更紗と文の関係は、
世間では「誘拐犯とその被害者」として、騒がれているけど、実際は、2人しかわからない事実としてそんな箇所は1つもない…
つまり、極端に言うならば、文と更紗以外の人間はみんな「一方」しか知らないということ。
それは亮も例外ではなくて、
だからこそ自分が愛している更紗を想うあまり、文などに対して暴走する。
原作に書かれている亮の幼少期は、
(前に読んだきりなので間違いがあるかもしれませんが)
「父親がDVをしていて離婚」
「その後祖母の家に預けられるが、母親の愚痴を聞かされることもあった」
というもの。
暴力を振るうことがどういうことなのか、
亮自身が一番わかっているだろうに、更紗に対して暴力を振るってしまう。
そうして事後にはとても小さくなって震えている。
震えているところだけを取れば
「あなたがやったくせに何そんな顔してんだ」とも思える。
でも、震えている理由はなんだろうかと少し考えてみるだけでも、亮を見る視点が変わるんじゃないかと私は思ったんですよね。
けれどみんなそうせずに、暴走する「一方」だけを見て嫌っているように感じて、少し悲しかった。
もちろん、暴力はいけないことだし、やっていい理由なんてない。
でも、こういったことは、
少なからず、気づかせてくれる相手や、変わることを手伝ったり、助けてくれる相手がいなければ、そう簡単に変わることはできないんじゃないかと思うからこそ、
みんなが一方しか見ていないように感じることが悲しかった。
みんな結局は結果論だよなと、自分自身さえも戒めながら。
流浪の月を読んでから、一方の意見だけではなく、多角的に見るということをより強く意識できるようになったと日々感じるし、そうするがゆえに、いろんなことが苦しくなることもあるけど、いい意味で諦観できる瞬間も増えた。
私はもしかしたら、
自分自身が「障害を持っている」ことばかりに目を向けられて、
自分の気持ちを蔑ろにされたり、
自分自身を見てもらえなかったり、
もっと言えば、自分自身が障害に気を取られていたり、
そういうことがあったから、
客観的に観察しやすい映画やドラマ、アニメでは、登場人物に対して「どうしてこうなのだろう」と過程をじっくり考えたくなるのかもしれない。と、ここまで書いていてより強く思った。
これも新たな発見ですね。
「この物語はフィクションです」
小説や映画、ドラマなど、あらゆる場所で聞く言葉。
フィクションとは、
簡単に言えば「作り話」なわけですが、
「この物語はフィクションです」の言葉とともに終わりを迎える物語たちが、たとえ実話に基づいていようがいまいが、私にとっては他人事のように思えないどころか、
ここまであげてきたもののように、
それきりの物語ではなく、ずっと自分の中に深く残り続けて、とても好きだと感じるものもある。
なぜなら、そのフィクションの世界にも、
懸命にあがいて、懸命に生きようとしている人たちがいて、その人たちを通して私の知らない自分を垣間見たりすることがあるから。
「あぁ、自分もこんな感情持ってたな」とか
「あぁ、あんなことがあったとき、自分は本当はこう言いたかったんだろうな」とか
過去を過去として消化できていない事柄を、
映画の人物を通して供養できるような感じ。
小さい頃の記憶を思い出そうとしても、
どこか他人事に感じてしまうところから考えても、本当の意味で自分の感情を自分ごととして捉えられるように意識するようになったのは割と最近なのかもしれない。
私は一時期、感情を要らないと思うほど、人間らしさみたいなものを嫌っていた。
ちょうどそんなときに出会った藤井監督の作品の中の人物たちは、とてもいろんな感情の色が渦巻いていた。
うまく言えないけど、泥臭いとでも言えるような、そんな。
そんな感情の色を全面に押し出してくれると感じる作品たちだから、感情を忌避する自分に刺さったのかもしれないと、新作を見るたびに思う。
フィクションと言われる作品を生み出すには、
そこに登場する街や人物が必要で、その人物を作るために、時には自分の内面ともしっかり向き合って作らなければいけない。
受け取る側も、それを解釈しようと思えば思うほど、同じ作業をしなければいけないように私としては思う。
役者さんを好きになり、私の世界が大きく変わり始めた理由の1つは、ある意味そこだと思う。
善悪、ポジティブネガティブ関係なく、
フィクションの世界で生きている人たちを好きだと思って初めて、その人物を解釈をしようとするし、
そうして、自分が知らない自分の感情らと正面からぶつかって、受け取り、向き合うことを教えてもらった。
ときには消化できなかったりもしたけれど、
自己理解は格段に広がったと思う。
自分と人物の過去と現在を重ね、
自分事を一旦他人事にして、
知らない誰かとして目を向け、
また自分ごとに戻すような感覚。
日常で生活していて、
感情を抑えることは死ぬほどあっても、
誰かに抱きついて、わんわん泣くだなんてこと、目撃は愚か自分でできるわけもないけれど、
藤井監督の作品「ヴィレッジ」の中で、
横浜流星さんが演じている優は、
そんな自分を見つけてもらって、何もかもが溢れ出したように泣いていた。
感情を抑えている自覚もないまま、
自分を大切にしなさいと言われ続けてきた私にとって、そのシーンはとても安心する瞬間だった。
「見つけてもらえてよかったね」と、
思わず泣いてしまったほど、なんだか嬉しかった。
人物を通して見える自分は、
とても強欲で、醜い。
嫌になるほど黒く、汚いけれど、
普通に一人で自分と向き合うときよりもずっと、受け入れてやりやすい。
それは多分、さきほど言ったように、
第三者目線で一度人物を通すから。
映画の中の人物を愛することが、
間接的に、そんな自分と共存する糸口になっているのかもしれない。
うまくまとめられず、
歯がゆい思いもありますが、
私の経験云々はともかくとして、
流浪の月は、映画、原作共に最高だし、
凪良ゆうさんはあれ以来続きもので二冊買って読み、お気に入りにランクインしているくらい刺さった作家さんでこれからも読むつもりですし
藤井監督の映画も本当に最高で、またもや新作が発表されたので、最高に、最高に楽しみにしてます。(◜௰◝)
こんなワクワクした自分がいるということ自体、アニメや映画に出会う前の私じゃ信じられません。
それくらい、昔の私は自分というものがそこにいなかったけれど、それらに出会ってから、
いろんなことを教えられ、気づき、受け入れ、救われています。
これからも多分、大好きな人たちが関わった作品を見て、たまに頭を抱えながら必死に頭をこねくり回したりして自分と向きあい、いろんなことを変えていくんだと思います。
もちろん、
物語同様、なにごとも
始まりがあれば終わりもある
それが生きていくこと。
いつまでも大好きな役者さんが存在してくれるわけじゃないし、
いつまでも大好きな作家さんや監督さんの作品に触れられるわけでもない。
それはいつも心に留めて、
いつも全力で受け取り、楽しみ、敬意と感謝を伝えていきたいなと思います。
いつも素敵な作品を届けてくださる方々、本当にありがとうございます。
では、今回はうまくまとめることができませんでしたが、これ以上悪化する前に。ではまた。
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