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今更「ロビンソン」の歌詞を見ていく

「ロビンソン」…僕が初めて聴いたスピッツの曲であり、今も一番と言っていいほど大好きな曲である。

ロビンソンとの出会いについての記事を以前書かせてもらった際にも少し言及したが、初めに聴いたその時から奇妙な魅力を放つ曲であると感じていた。不思議な浮遊感、なぜか懐かしさを感じるイントロ。言葉一つ一つの意味はわかるのに、通して見るとどこか掴みきれない歌詞。曲中に一切出てこない「ロビンソン」というタイトル。もちろん単純に聴き物としての魅力もあったが、それだけでは説明がつかない何か惹かれるものが、この曲にはあった。

僕自身、音楽的な知識はないに等しいので「曲」としてどれだけ素晴らしいか、どれほどの完成度かといったところを説明することはできない。メロディを初めて聴いた時から、単純にすっごいいい曲だなーくらいのノリで聴き続けている。

が、スピッツの真骨頂は、「詩」として、読み物として見る歌詞にこそあると僕は考えている。僕がはじめにロビンソンを聞いた時に感じた「不思議な魅力」というのも、この歌詞の捉えどころのなさが大きな理由としてあるのはないかと個人的には感じている。

「ロビンソン」に話を戻して、この曲の歌詞に着目すると、(他のスピッツの楽曲と同じく)平易な言葉でありながら非常に難解、考察の余地があるものとなっている。たとえば、歌い出しの部分。

新しい季節は 何故か切ない日々で
河原の道を自転車で走る君を追いかけた
思い出のレコードと 大げさなエピソードを
疲れた肩にぶらさげて しかめつら まぶしそうに

「新しい季節」とは具体的にどの季節を指しているのか。「レコード」と「エピソード」を「疲れた肩にぶら下げている」という表現の意味するところは何か。

「しかめつら まぶしそうに」という表現に関しても、そもそも誰の顔のことを指しているのか(僕?君?)。「まぶしそうに」というのは、「君」の顔が、まぶしそうにしている風に見えたのか、それとも「僕」がまぶしそうにしかめつらをしたのか。そもそもなぜしかめつら?なぜまぶしそうにしているのか?

文章の構成が特別おかしかったり、崩壊しているわけでもなく、言語として情報こそあるものの、全体像としてはっきり「こういったことを表現している」と説明するのが非常に難しい。

だが、「なぜか切ない日々」「疲れた肩」といった表現にどこか寂しさや、哀愁のようなものを感じることはできる。なんとなくニュアンス、雰囲気を感じとることはできる。

ここでは、独断や主観に基づく個人的な解釈として、ざっくりと「ラブソング」的な切り口で歌詞の考察を進める。僕が考えるこの曲の大まかなストーリーは「無気力に生きている“僕”が、恋に落ちてしまって、大好きな“君”との二人だけの世界を構築する妄想を広げている」といった、まあベタなやつである。

歌詞の解釈

僕はこの曲のイントロをはじめに聞いた時、直感で「夏の星空の広がる夜」を連想した。そのため、「新しい季節」というのは勝手に初夏くらいのことだと思っている。

新しい季節は なぜか切ない日々で
河原の道を自転車で走る君を追いかけた

「夏の始まりごろ、僕は“君”が自転車で河原の道を走っているのを追いかけていた。」(「一緒に走った」というようなニュアンスが含まれていないため、仲良しなどではなく勝手について行ってるだけ?→叶うはずのない一方的な恋ということを心の中で感じている→なぜか切ない日々?)

思い出のレコードと 大げさなエピソードを
疲れた肩にぶらさげて しかめつら まぶしそうに

「よく聴いた思い出のレコードの曲のこと(もしくは「レコード」=「記録、記憶」?)とか、“君”ともし話すことができたなら話すつもりの大袈裟なエピソードトークなんかを、疲れた頭の中で考えたりしながら、初夏の日差しを受け、まぶしそうにしながらしかめ面をしていた」

同じセリフ 同じ時 思わず口にするような
ありふれたこの魔法で つくり上げたよ

「(全部妄想だけど)『君と話している時なんかに、偶然同じタイミングで全く同じ言葉を二人で口にする』…そんな魔法とも言ってもいいような、ちょっとした偶然でつくりあげた…」

誰も触われない 二人だけの国
君の手を離さぬように
大きな力で 空に浮かべたら
ルララ 宇宙の風に乗る

サビに関しては、もう全て主人公の妄想の世界。「愛」のような、大きな感情の力で宇宙に浮かぶ、誰も触れることのできない2人だけの国で、君の手を握り続ける。「二人だけの国」に関して、個人的には、ラピュタ的な人工の建築物の上に草木の生い茂る浮島みたいなのを僕は勝手に想像しておりました。

つぎ、二番。

片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫も
どこか似ている 抱き上げて
無理矢理に頬寄せるよ

「かろうじて生きている捨て猫と、無気力に疲れとともに生きている自分の姿を『どこか似ている』と重ね合わせて、抱き寄せている。」

いつもの交差点で 見上げた丸い窓は うす汚れてる
ぎりぎりの三日月も僕を見てた

…ここが非常に難解で、考察のわかれるところであるように思う。

いつもの交差点で見上げた、うす汚れてる「丸い窓」とは?
「ぎりぎりの三日月」って?一体何がぎりぎりなのだろうか。
三日月「も」って?他に誰が”僕”を見ていたのだろうか。

いったん、ざっくりと、かつ単純な解釈をする。
(特に2番の歌詞に関しては、解釈が様々に分かれる非常におもしろいところなので、それに関してはまた後述する)

「いつもの交差点で、建物の丸い窓を見上げると、なんだかうす汚れているように見えた。(=自分の心情も汚され、曇っている)消えるか消えないかぐらいの、無くなるぎりぎりの細い三日月さえも(周囲の大勢の人と同じように)、自分に同情し、憐れんでいるように見えた(=被害妄想等を繰り返し、消えるギリギリの三日月のように、心が消えそうになっている。なので、”君”との妄想に逃避している?)。」

待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳
そして僕ら今ここで 生まれ変わるよ

「ついに夢見ていた時が来た。永遠に続く二人だけの国に君は驚いている。僕らはここで永遠を生きる存在に生まれ変わり、二人はついに結ばれる(という妄想)。」

誰も触われない 二人だけの国
終わらない歌ばらまいて
大きな力で空に浮かべたら
ルララ 宇宙の風に乗る

誰も触れられない、二人だけで永遠を生きる国で、終わらない愛の歌を歌い続ける。(という妄想)

みたいな。
ざっくりとストーリーをまとめると、「ネガティブで、死んだように生きている主人公が、『叶わない恋をしている”君”と、二人だけの国で永遠に生きていく』妄想をしている…」という感じの内容。なんかこの解釈でも結構怖いですよね。

そうそう、この曲(というかスピッツのいくつかの曲にも当てはまるが)、綺麗で美しいんだけど、なんか怖い、と僕は感じるのだ。うまく言語化できないけれど、綺麗すぎて、怖い。

その他の有名な解釈

ここまで僕個人の勝手な解釈をつらつら書いてきた。この解釈は、一番はじめに僕が聞いた時の印象やイメージに依るところが大きい。

「ロビンソン」はその歌詞の捉えどころのなさから、他にも様々な解釈が存在している。ここでは、僕が初めに聞いたときにちょっと衝撃を受けた、有名な解釈についていくつか取り上げる。

まず、僕の「叶わぬ恋」という解釈にちょっと近いが、「ストーカーの曲である」というもの。「自転車で走る君を追いかけた」「待ちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳」など、たしかに言われてみればどこかストーカー感のある表現が所々にないわけではない。

…だが、やはりこの曲でもっとも有名かつインパクトがあり、かつ解像度がとても高い解釈といえば、「後追い自殺を表現している」「心中を表現している」というものである。

「後追い自殺説」は、「関ジャム 完全燃SHOW」という音楽番組で、ゲス極やindigo la End等のバンドに在籍し、スピッツファンであることを公言している川谷絵音が語った見解である。

「走る君を追いかけた」と過去形になっていることや、2番のどこか不気味な歌詞は、愛していた”君”が既に亡くなっていることを示唆しているのだ。

そして、「まちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳」という表現。
ほとり、というのは川や池等の水辺を指す言葉とよくセットで使われる言葉だが、要はこれが「(三途の川の)ほとり」を指しているのではないか?そして、「驚いた君」はまだ生きているはずの”僕”がなぜか死後の世界にいることに驚いているのではないか?そう考えると、そのあとの「そして僕ら今ここで生まれ変わるよ」も、そのまま文面通りの意味というか、輪廻転生的なことを表現しているのではないか、そういった連想ができる。

つまり、サビの「誰も触れない二人だけの国」「空に浮かべたら」「宇宙の風に乗る」といった表現は、死後の世界、天国のようなところを指す表現なのである。

「心中説」も大体のベースは同じで、「驚いた君の瞳」というのは、「ここで一緒に死ぬことになるとは思っていなかった」ことに関する驚きで、「待ちぶせた夢」として心中したからこそ、「僕らここで生まれ変わるよ」…ということなのだ。

スピッツの曲のほぼすべての作詞作曲を手掛ける草野正宗が、「スピッツの歌詞の永遠のテーマが『性と死』である」といった旨の発言をしたことは、スピッツのファンなら一度は知覚したことがあるだろう。スピッツ最大のヒット曲である「ロビンソン」の根底にある世界観は、実は色濃い「死の世界」なのかもしれない。

おわりに

「ロビンソン」の歌詞に関して、僕が述べたような、いじらしい妄想を繰り広げるような美しいラブソングであるとも読めるし、一方では「自死と輪廻転生」といった、暗いテーマを濃密に描いたものであるとも読めるものになっている。作詞を手掛ける草野正宗は、以前インタビューで自身の詩に関して「歌詞の解釈にこれといった正解はない。それぞれが感じたままである」といったニュアンスの発言もしており、ようはあなたが感じたものがそのまま正解なのである。

この奥深さ、多面性をさわやかに歌い上げるスピッツというバンドの楽曲は、そこはかとなく美しく、そして時に、得体のしれない恐怖に似た感情さえも呼び起こしうるのだ。この一筋縄ではいかない歌詞の文学性、哲学にも似た奥行きは、スピッツを語るうえで欠かせない魅力の一つであると感じている。


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