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“脱ぐフェミニスト”として某ミスコンに出場するか本気で迷った話

こんにちは。凜音です。
普段はここで詩や散文、小説なんかを投稿していますが、今回はエッセイとして、最近考えていることについて書いてみようと思います。

実は、私は少し前まで某ミスコンテストに応募しようか迷っていました。女の子の個性の尊重し、多様性を謳う、一風変わったあのミスコンのことです。
今回ここでは、応募しようと思った理由と、応募をやめた理由についてお話させていただきます。


私はフェミニストです。

「フェミニスト」と言うと、あなたはどんな印象を受けるでしょうか。
Twitterで色んなことに「けち」を付ける人?「男性」に対して怒っている人?あまりいい印象を持っていない方もいらっしゃるかもしれませんね。

ここでひとつ、心に留めておいていただきたいことがあります。現代のフェミニズムは、決して女性の自由だけではなく、ジェンダーロール(女/男らしさ)に関する抑圧を受けている全ての人の自由も尊重する考え方です。
フェミニズムの歴史は長く、時の流れとともに変化し続けている考え方なので、定義や在り方は人によって様々です。しかし、上記のような定義にもとづいているフェミニストもたくさん存在します。また、フェミニズムとミサンドリー(男性嫌悪)は別の概念です。

私が日常生活の中で浮かんだささやかな違和感や疑問を突き詰めていった先で辿り着いたのは、フェミニズムをはじめとしたジェンダー論でした。現在は、大学でジェンダー論を主軸として学んでいます。


“脱ぐフェミニスト”でありたい

私は前々から、ポートレートモデルをやっています。特に、セミヌード(下着姿)での撮影をすることが多いです。始めたきっかけは、言ってしまえば「なんとなく」だったのですが、近頃モデルをするにあたって意識するようになったことがあります。

ヌード写真というものは、一歩違えば所謂グラビア写真やポルノグラフィと同様の捉え方をされます。ポルノが身体の性的魅力を表現するものであるのに対して、ヌード作品は身体の造形美を表現するものであるとも言えるかもしれません。
しかしその境界はやはり曖昧で、さらけ出された身体というものは、意図せずとも性的な文脈に置かれることが多いように感じます。そして現状では、この傾向は女性の身体に対してであればより顕著です。

身体というものは、他人の性欲のためだけに存在しているのでしょうか。私はそうではないと信じています。私たちの身体は、私たちが生きるため、いまここに存在するためにも必要不可欠なものであり、自分自身のためのものです。
私は決して、人間の性欲を否定したり穢れとして扱ったりするつもりはありません。しかし、性欲によって身体の本来の在り方が見えづらくなってしまっていることを悲しく思います。

これを踏まえて、私はヌードモデルをやり続けたいと思いました。“自分自身のために存在する身体”を表現する方法を探りたいと考えたからです。フェミニズムが指摘する身体に関する課題と、自分のモデルとしての活動を結びつけて考えるようになったのです。
もし探究の結果、望んだような表現方法が存在しないことや、身体とはそもそも自分自身のためのものではないことが判明しても、それはそれで満足です。
フェミニストだから脱ぐ。“脱ぐフェミニスト”でありたい。これが、私が活動する上での新たな指針となりました。

もしかすると、このようなことを試みる作品はすでに沢山あるのかもしれません。それでも、私は自分でこの指針を発見できたことを嬉しく思っています。
(写真を含め芸術に関しては不勉強な部分があるので、ご存知の方はぜひ教えてください。)


ミスコン出場による可能性

“脱ぐフェミニスト”という新たな指針を見つけてから、すぐにこれを発信したい!と思いました。私は前々から、もっと多くの人からジェンダー論やフェミニズムに興味を持って貰えるような活動をしたいと考えていたからです。

過去の受賞者の中には私が応援している人も複数いらっしゃるので、某ミスコンは私の憧れでした。そして、私が“脱ぐフェミニスト”として活動したいと考えた時には、ちょうど今年の出場者の募集が始まったところでした。
某ミスコンは、一般的なミスコンと似たような層だけではなく、多様性を尊重するという理念を掲げていることから、ジェンダー論などにも興味のある層からも注目を集めていると考えています。
つまり、出場することで、ジェンダー論に興味がある層と今まで興味がなかった層の双方にまたがったアプローチが出来ると考えました。

このように、私は“脱ぐフェミニスト”として某ミスコンに出場することを真剣に考え始めました。しかし、結果的には応募しないことを決めました。
ここからは、応募をやめた理由について話そうと思います。

応募をやめた理由①:
これまでの活動が不充分だった

私にはまだ、“脱ぐフェミニスト”として活動した経験がありません。ヌードモデルは以前からやっていますが、カメラマンにこの指針を伝えて撮っていただいたことはまだ1度もないからです。
ミスコンに出場する際には、プロフィール写真などを提出する必要もあります。この指針を掲げて出場するには、まだモデルとしての活動が不充分だと考えました。

また、フェミニストを名乗っているとはいえ、私のジェンダーに関する勉強もまだまだ不充分です
フェミニズムの歴史を丁寧に辿ってみたり、基本的な文献を読み込んだりといった勉強も、発信者になるためには重要だと考えました。


応募をやめた理由②:
某ミスコンが適しているかわからなかった

先程、某ミスコンは様々な層にアプローチできるという出場の長所を挙げました。しかし、それが本当に上手くいくのか、より良い発信の方法はないかなど、吟味する必要があると考えました。
もし私の活動や勉強が今より成熟し、吟味の結果適切であると判断できた場合は、いつか某ミスコンに出場することもあるかもしれません。

まとめ

上記の通り、身体は、そこにあるだけで他人の性欲のために消費されがちであり、それによって本来の在り方が見えづらくなってしまっているように思います。そこで私は、“脱ぐフェミニスト”として、“自分自身のために存在する身体”を表現するような作品を発信して行きたいと考えています。

芸術に関しても、ジェンダー論に関しても、まだまだ不勉強な私がごく個人的に考え出したことなので、未熟な部分もあるかと思います。ご指摘や疑問などあれば是非お聞かせください。
某ミスコンへの応募はやめることになりましたが、私の活動に賛同してくださる方は、作品づくりにご協力いただけるとありがたいです。

私たちの身体が、私たち自身のものであるために。


『おんがくは人をころすのに 人はおんがくをころせない』天星 凜音 (Self Portrait)


※“脱ぐフェミニスト”という指針に明確に賛同している方の依頼以外はお断りするという意図はございません。
私が自分の考えを踏まえた上で好きだと感じた作風をお持ちの方とは、ぜひ撮影など行いたいと考えています。

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