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#12 銀河の犬と水玉~曼珠沙華の伝言~


第8章 闇を行く

ゴミの分別もわからない

 その後、やっぱり工場が向いてるのか~と戻ったものの、どうも今までと違うのだった。
 単純なゴミの分別すらわからないのだ。
 私の頭の中ではAはBに入れないこと!と繰り返しながら、Bに入れている状態だった。
 Aを持ちながら「Bに入れない」と思うことでBに意識が集中する。
 そしてそのままBに入れてしまう。
 何度注意されても、注意されてるから気をつけて!Bに入れない!と言いながらまたBに入れる。
 覚え方が間違えている。AはCに入れる。と覚えよう!
 そう変換すると、AをCに入れようとして「Bで間違えた」記憶が引っ張りだされ、違う、また間違えちゃうからCじゃなくてBに入れる!とまたBに入れるのだった。

 なんでそんな単純な事が理解出来ていなかったのか。
 その時は理解出来ていないことすら自覚がないので、自分は間違えてないのになんで怒られなきゃいけないのか?
 そんな気分でさえいたのだ。
 作業自体にも支障が出て不良品を出すことが増え、初めて私から辞めるのではなく更新されずに契約を切られたのだった。
 普段から言い間違いも頻繁に起こるのと、単純な足し算、引き算の計算も出来なくなっていたこと。
 そして、これも単純なド忘れと一緒にされる事が多いが、完全に言葉を忘れてしまう事が増えた。
 言葉だけでなく、ATMの順番を待っている間に使い方を忘れてしまい、順番が来た時には使い方が分からずに並び直す事さえあった。
 自分でも驚いたのは、病院の待合室で犬の絵本があったから読みたいと思い手に持った。
 ひらがなとカタカナだった。
 その文章を読み上げることは出来るのだ。
 けれど、意味が全く理解できない。
 言葉の意味というよりは文章の意味が理解できない。
 英語で例えるならHOWをハウと読めるが「どのように」という意味である事は分からないと言った具合だ。
 「白い」を「しろい」とは読めるが、それが色の種類だとは分からないのだ。

 これには衝撃をうけた。
 子供向けの絵本が読めない?
 そんな病気が存在していたのか!
 これはどこまで進行するんだろう。
 私はひらがなすらわからなくなる日が来るのだろうか?
 アルツハイマーのような事が起こるのか?
 こんなに意識がハッキリしてるのに、出来ない自分をこんなにハッキリ認識出来るのに、出来なくなっていく自分を見つめなければいけないのか?
 身体が鉛のように、重くて使えなくなるだけではない。
 頭まで、使えなくなっていくのか。
 だったら何が残るのか?
 いや、何か残るのか?残ってくれるのか?
 何も残らないって……どうなるの?
 私が私でさえいられなくなるということ?
 猛烈な恐怖が降りかかってきていた。

言葉に代われない症状、急性期の始まり

 この病気の一番の象徴的な症状である「身体が鉛のように重い」という表現は本当に体験した者であるならばその言葉の通りなのだが、普通に生きてて身体が鉛のように重いまま24時間365日生活する事など無いので、想像しろと言っても無理だと思う。
「相手の立場になって。相手の身になって」
 と簡単に使いがちな言葉だが、この病気を説明しろと言われた時に、それは「体感した者にしかわかるはずのない苦しみ」としか言いようが無いのだ。
 どんなに言葉を探しても、合致すると感じる、腑に落ちる表現に出会えない。
 そして、その言葉に出会えたとしても、その表現は体感した事の無い者には伝わらない。
 それは今現在、沢山の方々が、私を手助けしてくれようと、病気を理解してくれようと本を読んだり情報を集めたり、私の言葉を聞いてくれていても尚、肝心な基本の事は理解していない、という事が多々ある事から、いかに伝える事の難しい病気であるかを思い知る事から、啓発とは終わりのない作業であると深く感じている。
 あまりにも症状が多すぎる。
 そしてあまりにも幅が広すぎる。

 今にして言えることは、この病気には初期症状は緩やかに、しかし微力ながらも安定した疲労感は続き、中期になると社会との関わりから悪化せざるを得ない状態に追い込まれ、そこで真面目や根性気質のある人ほど頑張ってしまい、急速に悪化する傾向にある。
 一度最重症まで行けば安定してくる時期が来る。
 しかし治るわけでもなく最重症より少しマシな所で何年も何十年も経過してる人が多く見受けられる。
 そして私の知る限り、この病気の患者は殆どの場合がヤル気に溢れていて、真面目で根性があり、活動的な人が多いという共通点がある。
 だからこそ、重症化してしまう患者は、軽症な内にしっかり休み切る事が出来ないでチャンスを逃してしまうのだ。

思い込みを外せたら

 人は不思議な事に、命を失う事に比べたら大した事ないものでも、今目の前にある問題が「どうしようもない事」だと思い込む節がある。

 例えば仕事。
 どんなに偉い立場にあろうが、責任があろうが、「どうしてもやらなきゃならない」事はない。
 誰にも明日が絶対保証されているわけではない。
 今夜死んだら、貴方の仕事は貴方はもう出来ないのだ。
 それでも会社は潰れないし、地球は回る。
 その仕事でなきゃ生きていけないはずは無い。
 例えば事故で身体の一部が動かなくなりその仕事が出来なくなったとしたら、他の仕事を探すだろう。
 その仕事でなくても、生きる方法は他にもある。
 その地域に住まなくても、他の地域でも生きていける。
「でも」
 そうでなければならない理由をかき集めるのは人間の得意技だ。
 それが、後から気づけば
 「なんだ。大した事ないのに、どうしてそんなに執着していたのだろう」と思うような事であっても、その時には見えないものなのだ。
 結果的に一日中、ベッドから動けずに寝たきりで何も出来なくなる事に比べたら、仕事なんてさっさと辞めればいい事くらい、当たり前の事なのに。
 まだその大変な未来を予測でも受け入れる事が出来ないのだ。

明日地球が終わるなら何をする?

 そんな生き方で生きる事から大きく離れているのだ。
 それは「絶対に有り得ないこと」では無いのに。

最後の派遣

 2015年年始から面接をして1月中旬から新しい職場へ移った。
 片道20kmもある隣の市の山の中の職場だった。
 そんな職場へ通いだして3月を迎えた頃。
 またである。
 1~2ヶ月続けて働くと、もう身体が限界を迎える。
 毎日朝から起き上がる時点ではもう子泣きじじいが乗っているのである。
 ちょっと重い爺のはずが、だんだん石の爺に変化して行き、座る姿勢すら辛いのだ。
 完全に横になって石を背負うことない体勢でしか、休める時は無いのだ。
 それでも私は毎日子泣きじじいを引き連れて通勤していた。
 すると今度は「喉の痛み」なんてたった6音で済まさないで欲しい程の激痛に襲われた。
 喉にボールを押し込められたまま何も出来ない。という表現が一番しっくりきた。
 息をするのも苦しくて、唾を飲み込むのも痛くて、身体は疲れきっているのに、痛くて眠れない。
 自分の中ではテニスボール程の大きさのボールがどんどん大きく膨れ上がっていき、喉が破裂するのではないかと思うくらいにパンパンになっている。
 夜中には尋常じゃない大量の汗をかき、悪寒を繰り返す。
 発熱かと思えば微熱程度で熱は特に上がらない。
 でもその微熱も何日も、何週間も下がらない。
 流石にこの状態で子泣きじじいまで背負うにはもう限界だった。
 そして何より20kmの道のりを運転する途中で、座ってる姿勢を保つのが難しくなってきたのだった。
 自爆にあらず誰かを巻き込んで事故になってからでは遅い。
 とにかく、病院で「運転は危険だから」と言ってもらわなければ職場に申請出来ない。
 紹介状がないと診てくれない大きな病院へ駆け込むしかなかった。
 もう検査は異常なし、何の病気かわからないと言われ続けた個人の病院巡りをしていても拉致があかない。
 とことん検査をして、これが異常なしなはずがないのだから、流石にヤバい病気に違いない。
 とにかく病名を教えて欲しい。
 そんな思いで国立病院へ行った。

大きな病院という罠

 いつも思うのですが、大きな病院での初診は若い医師が多く、ここまで色んな病院で不明とされてる病気だから知識豊富な先生に話を聞いて貰えないだろうか?と望んでもダメだと言う。
 なので、一度はその先生に診てもらい、やはり見解が納得出来ないので他の医師にして欲しいと言ってもそれは無理だと言うのは、どうにかならないものなのでしょうか。
 有名な重度の病名な方は知識のある先生にチェンジとなる事があっても、指定難病にもなっておらず知ってる医師すらほとんどいない病気の患者の初診を、わかるはずがない医師がみるだけで、わからないとも言わず、その上に回してもくれないから放置されて悪化する。
 そのシステムを何とか変えてくれない限り、奇跡でも起こらなきゃ確定診断してもらえない……という病気がある事を沢山の人に知ってもらいたい。
 私の病気もまた、その中の一つだった。
 そしてやはり若い女医さんの初診は、とてもテキトー極まりない診察だった。
 前の患者さんがクレームを出したみたいで揉めている最中のようだった。
 私は息も荒く、身体も斜めにしながら、ハアハアと途切れながらも一生懸命に話した。
 しかし話の途中からその女医は急に後ろにいる看護師さんに話しかけ始めるのだった。
 しかも何回も。
「ねえ、さっきの人なんて?」
「まだ言ってきてるの?」
 女医の機嫌を取る看護師。
「先生のせいじゃないですよ。」
 え?その話、今やならきゃダメなの?
 私の話聞いてるの?
 やはり聞いてなかった女医はひとしきり看護師との会話が終わると私に向かって
「で、なんだっけ?」
 なぜこの女医はこんなに態度がクレイジーなのか?
 診察中で患者が話してるのに「ちょっとすみません」も言わずに、突然話を切って看護師と話始める。
 その後も一切謝ることなく「なんだっけ?」と言い出す。
 しかも何回も、だ。

 私は話していてその症状と似た症状を母親が経験していたと思い出し、「亜急性甲状腺炎ではないですか?」と言ってみた。
 すると女医は高圧的な態度で
 「あのー!亜急性甲状腺炎って言うのは、うつらないし、身内だからって遺伝するものでも無いので‼それは無いですね!」と言い切ったのだ。
 しかし血液検査の結果が出た後、その態度はなかった事とされており
 「数値を見ると、やはり亜急性甲状腺炎を疑うのが妥当かなと思います」とのたまった。
 え?どの口が?
 すごい剣幕で否定してきたよね?まぼろし?
「とにかく、ウチでは検査が出来ないので、大学病院を紹介しますので、どっちがいいですか?」
 地元には大学病院は二つしかない。
 行きたいのは遠い方だが、あそこまで運転出来る体力はもう無い。
 もうひとつは、前に皮膚科で散々通ったけどどの薬も合わなくて、一度に沢山出されて合わないとまた沢山違うのを出されて、薬代だけで高額なお金を巻き上げられただけで、全然治らなくて行くのを辞めた嫌な思い出しかなかったが、現実に通院出来る距離はそちらしか無かった。

大学病院へうつる

 その大学病院で毎月2回の血液検査と、その都度エコーやレントゲンや心電図や様々な検査をする事になった。
 その度に「亜急性甲状腺炎か、バセドウ病か、橋本病だと思ったんだけど、数値的にどれにも当てはまらないから、病名を付けるとしたら亜急性甲状腺炎と言うしかない」と言われ続け、何もわからないまま半年が過ぎた。
 あまりの炎症の酷さにプレドニンを処方された。
 魔法の薬と呼ばれるように、何だかわからないものにはプレドニンを出しておけば大体治る、とされる強い薬だ。
 それが喉の痛みと腫れを抑えてしまったので、またしても鉛のように重い身体の事は理解して貰えず検査にも異常は出ず、働き続けるしかなく無理を続けてしまっていた。

 通院で休みを貰うようになった途端に残業が毎日3時間ほどの激務の部署に移動を命じられた。
 振るいにかけられたのだ。
 実際にその会社では求人広告に毎週求人を出しており残業無しの部署も募集しているのだが、私がそこへ移りたいと言ってもそんな部署は無いと嘘を言われて残業出来ないなら辞めてもらうしかない、との返事だった。
 そんな所に7月末まで頑張り続けてしまった。
 辞めると決まってからは、立ち仕事が無理なのでと、椅子に座れる仕事をさせて貰ったが、それでも座位が保てずに倒れそうになった事も何度かあった。
 帰り道はフラフラで、運転を何度か途中のコンビニで休みながら帰るので、家に着くのが夜遅くなり、倒れ込むように寝たまま朝を迎える事もあった。
 ジュビ子のお散歩すら行けない日もあった。
 大学病院で「もう仕事も辞める事になったので、本当に病名と治療法が知りたいんですが……」と告げたが「すいませんねえ。何もわからなくて。患者さんから怒鳴られる事もあるんですよ。でもそれが仕事ですから仕方ないですけどねえ。」
 と医師に言われた時に「この先生じゃダメだ」と確信した。
 退職時にも亜急性甲状腺炎という名前しか書けないと言われ、亜急性では数ヶ月で治るはずなので、退職の理由は「自己都合」とさせられてしまった。
 それでも診断書があるので、人生で初めてハローワークで失業保険を申請するというスペックを身につけた。
 今まで何度も辞めていたが、申請がめんどくさいので一度もした事がなかった。
 二ヶ月の支援は貰えても、また働かなきゃ生きていけない……と。
 その二ヶ月で病名と治療法を探して、しっかり休んで、すぐに働けるように。とまだそんな事を考えていた。
 そしてネットで調べた甲状腺の病気のエキスパートとされる東京の病院を見つけた。
 私は早速大学病院に紹介状を書いてくれるように頼んだ。


東京の病院へ

 紹介状を手に入れいざ東京の病院へ。
 一日目はあらゆる検査をして、翌週に結果を聞きに行くと、甲状腺の病気では無いので、これ以上甲状腺の検査を続けてもムダだと思います。総合病院で他の検査をするべきだと思うけど、プレドニン飲んでしまっているから、炎症を抑えてしまってるので検査しても異常が見つけられなくなる可能性もある。
 そして、これを飲んでる事で免疫力が低下して風邪のようなものになってダルさが出てるのかも……
 とも言われたが、
 いや、だから怠さってそんな程度の怠さじゃなくて、子泣きじじいが石になってる怠さなんですよ、と。
 病院での「怠さ」はどんなに言ってもただの「怠さ」にされてしまうのだった。
 一般的な寝れば回復する怠さと一緒にしないで欲しい。
 寝ても寝ても寝ても永遠に怠い地獄の子泣きじじいコースをなめないでほしい。
 そしてやはりプレドニン…急に断薬は出来ないので、少しずつ減らして辞めるのがいいのですが、プレドニンの調整をする為だけに東京までくるのも大変だと思うので、近くの病院で調整されるのが良いかと思いますが……と親切に提案して頂いて、二週間ずつの減薬で28日分をもらい、その後は地元の病院で……となったが、もう大学病院へ戻っても何の意味もないし、国立病院も大学病院へ行く前に検査で駆け込んだ時に男性の若い医師に「こんなに検査しても何も異常がないんですよ。なんで病院来ようと思ったんですか?」と何度も言われ、それが嫌味だとわかるまで私は何度も説明してしまったが、何回も看護師さんが「辛かったのよね」とフォローしてくれた事で、その真理が掴めた。
 そしてこんな病院もう来たくない、と思った。
 他に総合病院と言われても……小さな地元で探している限りは無理なんじゃないか…
 かと言って、東京の病院は全くわからない。
 大きな所を調べても紹介状がないと診てくれない。
 地元に紹介状を書いてくれる病院がない。
 そして、疲れ果てた身体を毎日休ませる事が出来て二ヶ月経ったので、また少し症状は落ち着いてきたかのように見えた。





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