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#15 銀河の犬と水玉~曼珠沙華の伝言~


治療の為の準備

 もう東京の病院へ通うしか無い。専門医じゃないと話にならない病気なのだと、やっとこの病気の重さを痛感した私であったが、まず、この身体ではもう東京へは行けない。

 車椅子が必要だった。

 そこで市役所に問い合せたが、障害者手帳が無いと何も出来ない。レンタルもやってない、と嘘をつかれた。
 無料の貸出もあったのに、その時の電話でそう説明されたので、私は障害者手帳をまず取らねばならないのかと思った。
 そして、治療費も保険外で高額な為に、障害年金の申請をする事にした。
 障害年金の申請は東京の専門医に書いてもらったが、障害者手帳の申請には認定医でないとダメなので地元で探すしか無かった。

認定医に拒否られる

 近所の内科しか頼めないが、院長先生が認定医だったのでお願いしてみた。
 しかし、この病気では申請は出来ない。と断られた。
 手足があって、少しでも歩けるのなら、車椅子の申請は出来ないと。
 そこで患者会に、地元に頼れる病院が無さすぎて困っている。
 何か情報を知らないかと問い合せたが、その県には受診出来る病院はありません。と。
 ただ、患者は誰も行ったことがないが、後援してくれてる傘下の病院があるので行ってみては?と教えて頂き、早速2017年1月に行ってみた。
 しかしそこも田舎あるあるの洗脳にかかっており
 「国立病院の医師が言うなら過換気症候群に間違いない。私から見てもその症状は過換気症候群なんだよね」と。精神科で違うと言われた事を告げてもまだ言うのであった。
 何年もしてから知ったが、そこは国立病院の医師が流れ着く病院であったらしい。
 なので国立病院の誤診を認めるはずは無かったのだ。
 そしてそこでも認定医の先生に、障害者手帳の申請が出来る病気じゃないから書けないと断られる。

Twitterの力

 時代はTwitterである。
 Twitterに書き込んだ所、障害者手帳は病名で申請するものでは無いので病名は関係ない。
 身体の症状を申告するものだ。だからどんな病名であっても書きます。
 という神様のような医師の存在を教えてもらった。
 東京よりも先だったが、私は迷わずに連絡をとり、もしかしたら道中で倒れる事も覚悟でその医師の元へ向かった。
  最寄り駅からその病院まで何kmもの道のりを歩いたような体感だったが、数百mだったと後から知り、
もう地面しか見えない程に頭を下げて、腰が90度近く曲がったおばあちゃんと下校の小学生にバンバン追い抜かれながら、何十分もかけてたどり着いたのだった。
  到着の安堵とともに、私はもう立つことすら出来なくなっていた。

   そのような状態を「歩ける」とは言わないんですよ。と初めて言っていただけた。
  例えば100m歩いて倒れてしまう、何日も寝込んでしまう、通常の人が数分で歩けるのに1時間かかったとする。
  その状態を、100m移動出来たからって「歩ける」とは言わない。
  そんな人の為に杖や車椅子があるのだから。
  「補助具を使えば移動可能」であるから、車椅子が必要なのであり、申請をするのだと。
  そこに病名は関係ない。
  身体の状態だけが問題なのだから。と。
  そんな事を言ってくれる先生は地元には1人も居なかった。私は深く感動していたが、後に社会福祉士の方からそれは常識であること、障害者手帳に関するガイドラインのようなものに表記されていること、それを知らないで認定医をやっている地元の医師が問題だと言う事を言われたが、やはり同病患者は全国でそのような目にあっていた。
  「医療格差」なんて4文字熟語のように簡単に言うけれど、それは人生をめちゃくちゃにされてしまう程の大きな岐れ路なのだ。
  現に、障害者手帳も障害年金も何の問題もなくスムーズに申請が出来た患者もいるが、その患者より重症なのに、住んでる地域のせいで障害者手帳も障害年金も通らない患者も沢山いる。
  立てない、歩けない、動けない患者の住んでる都道府県内に病名を知ってる医師がいなければ、確定診断に辿りつけないのも制度も正しく申請させて貰えないのも、当然の地獄であろう。
  
  そして、痛みの発作については線維筋痛症だと言われる。
 更に、脳脊髄液減少症も似た症状があるから検査をしてみる事を勧められた。

その日はもう帰ることは無理だろうからホテルに泊まった方がいいと勧められたが、そのホテル代を捻出出来ないのでしばらくベットで休ませてもらってから帰宅した。
勿論帰宅後はまた何日も動けない日が続いた。

障害者手帳取得

 2017年2月。
 私は重度障害者として認められた。
 障害者手帳一級一種が発行されたのだった。
 やっと車椅子が申請出来る! 
 一つ前に進める。と喜んで説明を受けに行った時に、実は障害者手帳がなくても貸出は出来る事を知る。
 同時に、私の地元では車椅子の申請に使う診断書も認定医でないと書けない事を知る。
 更に、書いてくれる医師は居なかったのだった。
 またしても頼むのは他県の医師となった。
 また東京の治療が遠ざかった。
 しかし、障害者手帳があるので介護を受けられるようになった。
 沢山の質問をしに市役所の方が訪問されてから、5月を過ぎて、介護業者さんにお願いする事が出来るようになったのだ。
 そして同じく春にして障害年金の不支給決定が届く。
 今度は治療費がどこからも出ない。
 そしてそこには確定診断二度目の病院が初診日であると断定されて却下されている通知があった。
 確定診断を受けているのにそれを無視する事がなぜまかり通っているのか?何かの間違いに違いない。
 社労士さんに相談して不服申立てをする。
 もうブレインフォグと呼ばれる頭に霧がかかったような症状が更に悪化しており、長文のメールや、難しい書類は読むことも困難だったが、その中で何としてでもやるしか無かった。
 治療費と生活費の為に。
 通院介護を受けられるようになったので、脳脊髄液減少症の検査を受けてみようと国立病院と密接してる内科のK病院に紹介状をお願いした。
 すると県内には無いから隣の県の大きな病院を……と書いてくれたのだが
 その検査が私を一気に寝たきりに追いやることとなった。

地元の整骨院の院長との出会い

 障害者手帳を取得しても介護業者にお願い出来るまでの間、自力で通える範囲の距離で、薬の処方ではなく直接筋肉の状態を触診してアドバイスを貰える病院は無いかと探し求めた。
 数年前に腱鞘炎で辞職し、生活にも支障が出る程で安静を余儀なくされた時、家からは決して近くは無かったが車で30分ほどの整骨院でとても勉強熱心で情熱に溢れた院長との出会いを思い出した。
 あの先生なら、この病気を知らなくてもきっと話を聞いてくれるはず。
 そう思い予約を入れたが、その院長は代表へと変わり他の院に移っているとの事だった。
 初めましての新しい院長先生は、それでも前院長の選んだ方であるならば、志は同じであるはずだ。
 一縷の望みを胸に、病名と症状をお話した。
 躊躇されるのは当然に思う。
 しかしその新院長もまた、病名やリスクよりも
「本当に大変そうだ。自分に何か手助けは出来ないだろうか。」
 と思ってくれる純粋で崇高な魂の持ち主であった。
 後に、最初は断ろうと思っていたと笑いながら話してくれたが、他の患者さんのやり方とは違う、私の病気に対するやり方だけを模索して様子を見ながら施術を進めてくれた。
 今までは処方薬でしかなかったが、直接コリやハリを解して貰うことで身体はとても楽になっていった。
 歩行時間も少しずつ延びていた。
 ジュビ子の散歩も杖をつきながら、小学生よりも遅い歩幅で10分歩くのがやっとだった頃から、杖をついて30分。時には杖無しで20分も歩ける事も出来るようになった。
 このまま整骨院の調整と内服からアプローチすれば、杖も要らなくなるかもしれないと希望を持つ事が出来た。

脳脊髄液減少症

 せめて水準的な生活を送れる程度には回復したいと、私は焦っていた。
 治療法や検査を知れば、何でもやってみたいと思っていた。
 それで治るなら、藁にもすがる思いで、何でもしようと思っていた。
 全ては早く治りたいから。
 しかしこの病気の罠はそこにあったのだ。
 とにかくゆっくり何もしないで休むこと。
 それが一番良い事だと言われても、頑張ってしまうのだ。
 治療法さえ探し当てれば治るのではないかと、そこに執着して悪化させてしまうのが、この病気の患者の特徴でもあった。
 私もまた、積極的に治療法を探していた。
 そこで、隣の県の大きな病院で、脳脊髄液減少症の検査を受ける事にした。
 脳脊髄液減少症とは、文字通り脳脊髄液が漏れてしまい減少してしまう病気だ。
 頭を上にして長く立っていられない。
 目眩や吐き気や頭痛、あらゆる症状が出てしまう為に、頭を低くする必要があり、リクライニングや水平に寝た状態を保たねばならない。
 もし脳脊髄液減少症が併発しているとわかれば、ブラッドパッチという治療法がある。
 1度で完治するのは1%というとても狭き門ではあるが、それでもし、この症状が軽くなるならどんなに生活しやすいだろうかと思うと、どうしても脱出方法が欲しかったのだ。
 リスクは足止めの理由になどならなかった。
 「為す術もない」というお手上げな状態から何か一つでも、希望が欲しかった。

合併症

 その検査方法には病院によってやり方が違う事もあるが、基本は同じはずだった。
 しかし私が紹介状を出してもらって検査したその病院では全てがおかしかったのだ。
 麻酔科の医師が、針で髄膜を傷つけて破ってしまうなど万に一つも起こるはずがない。そう誰もが言った。
 しかし私には、その万が一が起きてしまった。
 検査で背中に太い針を刺してからプチッという音と共に、頭のてっぺんを突き刺すような激しい痛みで頭をあげていられなくなった。
 ヘルパーさんの運転で、大きな車の後部席でリクライニングをしての帰宅だったが、僅かな傾斜が残るリクライニングでも辛すぎるのだ。
 水平でなければダメになっていた。
 地面が回っている。
 目の前に映る世界がグニャグニャと歪んで見えた。
 そして目を開けているのもしんどくなった。
 とにかく水平に寝ても激しい頭痛と針を刺した背中と腰の痛みが止まらない。
 そこから私はトイレにも行けない完全な寝たきりとなってしまった。
 慌てて病院に電話すると、悪びれもせずに
 「あ~、それは私が検査の時に破ってしまったんでしょうなぁ~。
 予約は要らないので、また来てくれればすぐブラッドパッチやりますから。そしたらすぐに治りますよ」と医師が言った。
 私は完全に信用する事が出来なくなった。
 ブラッドパッチとはそのように簡単にやるべきものでは無いことは少し調べただけでもわかっていた。
 しかし頭も回らず、会話も辛く、文章を読むことはもう不可能に近かったので、ネットで長文を読むのは無理だった。
 東京の専門医に電話で助けを求め、ブラッドパッチについて、「この検査で失敗した医師がブラッドパッチなんて危険すぎる。どうしてもやりたいなら違う病院へ行くべきだ」と、第一人者の医師を教えて貰った。
 しかし予約で埋まっているので今すぐには無理であること。
 そしてとにかく、今は、失敗されて合併症になっているからとにかく安全に、普通の人でも一週間以上は安静が必要だから、ME/CFS患者は倍以上の安静が必要だと心得ておくようにと言われ、今すぐ何か行動しようとするのは危険であると説得される。
 同時にまた、ツイッターから脳脊髄液減少症でブラッドパッチを受けた患者さんが連絡をくれた。
 見ず知らずの私に、自分も経験者だから辛さを知っているから、本当に困ってると思うから電話してもいいですか?と連絡をくれた。
 女神のようなその女性は、電話でも優しく丁寧に、そして、ご自身が苦労して集めた情報を惜しげも無く教えて下さった。
 脳脊髄液減少症の患者もまた、入浴ひとつリラックス出来ずにタイマーをかけて、頭をあげていられる限界が来る前に上がれるような努力をしていたり、大変な生活を送っている事を教えて貰った。
 2週間以上お風呂に入れない。歯も磨けない。髪も洗えない。トイレも自力で行けずにオムツ。
 そんな醜態を知られたくないと思うような感情はもう無くなっていた。
 今回出会えた拾う女神のように、その体験を伝える事で救われる人がいる。
 役に立つ事がある。
 体験談が宝となる事がある。
 何よりも、その情報を求めて必死で探している困惑した患者がいる。
 私は躊躇なく、その酷い有り様をブログに残すことにした。
 忘れないようにメモを取り、痛みが激しくても少しずつ記録した。
 そして、紹介状を書いた内科へは母親が代わりに薬だけを貰いに行き、状態を報告してくれたおかげで、医師の気持ちも少しは変わったようだった。
 次回に「酷いところを紹介してしまい申し訳なかった」と謝ってくれた。
 そして、今までただの過換気症候群だと冷たい視線で切り捨ててきた態度が変わり、話を聞いてくれるようになった。
 薬についても相談しやすくなったように思う。
 寝たきりとなっている間、せっかく見つけた整骨院へも行けずにまた症状は振り出しどころか、それ以上のマイナスへと逆戻りしてしまった。
 そして同意書にサインをした通り、合併症を引き起こした病院も医者も何の責任も取ってはくれない。
 責任とってブラッドパッチをすると言われてもこちらからお断りするが。
 そしてまた、私は何を信じたらいいのか分からないという迷路へ迷い込むのであった。


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