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私の"辛い”は甘えなのか
過去に何度かメンタルがぶっ壊れた時のことについて、少しずつ前が向けるようになってきた今、改めて考えてみました。
⚠️過去の話が出てきます。基本的に暗いです。
弱っている人はあまり見ない方がいいかも、です・・!
友人関係が上手くいかなかった
最初に歯車が狂ったのは、小学4年生のころに友達にハブられて、嫌がらせを受けてからだったような。
登下校が一緒だった4人のグループからいきなり仲間外れにされたり、クラスの子に物を捨てられたり、田んぼに突き落とされたり。
中学に入ってからは、スマホを持たせてもらうようになって。
当時ペア画っていうのが流行っていまして。(今も流行ってるのかな?)
![](https://assets.st-note.com/img/1660649767544-MAmhPG6dVs.png)
こちらは当時ペア画として大人気だった、イラストレーターmomochyさんが描いたものです。
主にLINEのアイコンで用いられていました。
アイコンをお揃いにしたり色違いにすることで「私たちは仲良しだよ」ってアピールしていたんですけど。
私はいつも一緒にいるグループの子達のペア画からハブられてしまって。
すれ違いざまに「死ね」とか、心ない悪口や嘲笑を言われることも日常というか。
休み時間は一人で本を読んでやり過ごしてました笑
両親との亀裂
まだ1年、2年生の頃は全然耐えられました。話せる友達が全くいなかったわけではないし、親が相談に乗ってくれていろいろ動いてくれたりしていたので。
そして3年生になってからは、現在でも交友が続いている友人たち出会い、仲良くなることができたので、交友関係は順調だったんです。
けれど、3年生という、進路を決めなくてはならない時期になってきて、今度は両親との間に亀裂が入ってしまいます。
人生そう上手くはいかないものですね。
父親の方が頭が良かったので、まあ人並み以上には厳しかったというか。
「最低ラインはこの学校だ」って偏差値を提示されたり、進路についてはいろいろ言われたりしました。
「結果の出ない努力はしてないのと同じ」
「なぜそんなこともわからないのか」
「失敗作なんじゃないか」
とか。
テストの成績が返ってくると「そこに正座しなさい」ってリビングに呼び出されてお説教されることもしばしば。
父親が不器用な人なので、そこにきっと悪意はなかったんだろうなと今なら理解できますが。
当時の私は言葉を正面から受け止めてしまって。
(母親は父親の前では私の肩を持つような発言もしてくれましたが、1対1になると、方針は父と同じでした。)
___
元より友人関係でトラブルがありまくりな私は、容姿の良し悪しが周りとの関係ちにも影響することを、身をもって知っていました。
容姿にも恵まれず、成績も芳しくない私。
何か秀でた特技があるわけでも、とりわけ性格が良い方でもありません。
そして私には、正反対の妹がいるのです。
何事も一生懸命に励み、思いやりがあって見た目も可愛らしい妹が。
親ははっきりと言葉にして私たちを比べるように評価したことはありませんが、妹が私より気に入られているのは、言葉にされずともわかっていました。
そうして自分の不出来さが妹へ対する劣等感に、どんどん呑み込まれていって。
いつしか、私には価値があるのか、と自問するようになって。
"私には生きている価値がないんだ”って結論が出るまでに時間はかかりませんでした。
同時に両親に対しても、なぜ私を産んだのか、とか思うようになって。
もう親にはなにも相談しない、出来なくなっていました。
やっとできた友人にも親の愚痴をふざけ半分に話すだけで。
私は、息詰まった心中を誰にも打ち明けることはありませんでした。
ずっとずっと嫌いな自分
そうして私は、両親の言う「最低ラインの高校」へ入学します。
高校入学してからも、私は自分が嫌いになるばかりでした。
まず見た目。
変えよう変えようって15キロのダイエットを成功させ、メイクを少しずつ覚えました。
それでもまだ、鏡に写る私は不細工でした。
次に対人関係。
真面目な優等生をやめました。
なるべくノリよく、なるべくバカを装って。
そうしたら、仲良くしてくれる人が増えました。
でも、私は多分、振り切りすぎてしまった。
私にはなにを言っても良い、と思わせてしまったのか。
私に対して無遠慮な物言いをする友人が増えました。
ハブられるよかマシだって、イジられてもヘラヘラ笑ってやり過ごすようになって。
私はいつの間にか、自虐すらするようになっていました。
自分で自分を馬鹿にしていたら、周りも当たり前に私を小馬鹿にして。
私もそれに対して笑う。
初めて自傷行為をしたのは中学3年生の受験期でしたが、高校になって、その頻度が圧倒的に増えていきました。
誰にも迷惑かけずに、自己完結できるこの方法でしか、私は自分の負の感情を逃がすことができなかったのです。
中々綺麗にならない傷跡が母親にバレて、問い詰められたこともありました。
その度に
「なんでもない」
「火傷が治らなくて」
って、はぐらかして。
やがて、母は私を問い詰めなくなりました。
それがどうしようもなく苦しくて。
気づいて欲しくてやってたわけじゃないけど。
でも、そうやって見過ごされるようになって、母は私に興味ないんだ、娘が自傷していることは大したことじゃないんだって思ってしまって。
ずっと黒いぐるぐるした感情が心にのしかかったまま。
でも命を捨てる選択はできなかった。
しにたいとは何度も考えたけれど。
結局自分はこんな自分のことを自分で殺せない。
結局、自分が可愛いんだ。
その事実に吐き気がして、さらに自分が嫌いになりました。
追い詰められて
そして、現在の美術学生という道を選びました。この選択をした話はまた別の機会にしようかなあ。
ここからが本当の地獄で。
とにかくクラスメイトに圧倒される日々で。
みんな、過去に努力してきたからこその技術で、本当に本当に尊敬しました。
と同時に、再びやってくる、劣等感。
私には、なにもありませんでした。
なにも、頑張ってない。
なにも、成し遂げていない。
本当に、私だけ。
なに一つだって持っていなかったのです。
多分、それは今も。
次々と、学校を辞めていくクラスメイトを横目に「次は私かな。」と思ったこともたくさんありました。
それでも続けられたのは「好きだったから」なんて綺麗なものじゃない。
両親のことを考えてしまったんです。
学校に入るためにお金を出してくれた、それ以前に、こんなどうしようもない私に人生を食い潰されている両親のことを考えると、申し訳なさで潰れてしまいそうで。
不思議ですよね。
なぜ私を産んだのかと、両親を責めていたのに、この頃にはもうそんなことは考えなくなっていたのです。
そうして無理矢理自分の心を無視してやり過ごすうちに、再び、人生を辞めてしまおうかという考えを持ち始めるようになりました。
どうやって、とか、より具体的な方法を考えたり。
駅のホームから、線路ギリギリまで吸い寄せられるように寄ってみたり。
マンションの最上階から直下を眺めたり。
死んだ後のことも考えました。
死んだらどうなるのか、とか。
毎日毎日、毎日。
四六時中死について考えていたけれど、そんな私に気づいた人はきっといないと思います。
クラスメイトはもちろん、身内さえも。
違和感のない愛想笑いや関わり方は、高校生の頃に身につけていましたからね。
もうどうにもならなくて
そんな黒い渦がすぐそばまでやってきている毎日。
どうしようもなく動けなくて、学校にいけない日もありました。
一日中ベッドから天井だけを眺めて。
辛くて辛くて、死にたいのに死にたくなくて。
そんな感情を一生背負って生きていくのか、と考えたら怖くて。
自分のこの感情は、どう考えても普通じゃない、と自覚はあったから。
最後に、というせめてもの気持ちで精神科に行くことを決めました。
もう成人間近(去年の話ですので私は18歳でした。)というのに、情けなく泣きながら、とにかくいろいろ話したのですが、もうなにを話したのかもあまり覚えていませんね。とにかく必死だったような。
で、鬱傾向にあると言われたものの、病気として断定するには早い、と言われ、いくつかの薬を処方してもらい、終わりました。
病名がつかなかった私の気持ちは、単なる甘えなのでしょうか。
___
今でも負の感情に呑まれそうになることはあるし、自分のことは相変わらずあまり好きではありません。
それでも、過去よりは幾分か前を向いて状態で生きています。
どうして、変われたのか。
何があったのか。
この心境(思考)の変化は次にでもさせてください。
私は今日も、泥臭く毎日を生きています。
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