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自戒

死にたいと思った。
死ぬことしか考えられない日々があった。

なにもできないし、なにもしようとしない"私”という人間が生きているということに、まるで価値が見出せなかった。毎日、真っ暗で不透明な将来を考えて、考えて、考えて、泣いていた。

でも、結局。
死ぬことができなかった。
死ぬ選択を、自らを殺す選択を、私はできなかった。

こんなに落ちぶれているというのに、なにも出来ないくせに、自分で命を絶つことすらも出来ない私自身に嫌気がさした。
うんざりした。
だから、もう生きるしかなかった。
どうなっても、生きるしかないんだ。

ここで死ぬことに関して、ある種諦め、みたいなものがあったんだとおもう。今となってわかったことだけど。

みんなすごいなあとおもう。
私なんかよりずっと立派に生きてて、えらすぎるよ。
眩しすぎるよ。


私はこんな私を客観視して、誰よりも、両親に申し訳ないとおもう気持ちが強かった。
私には努力家な妹に、心優しい弟がいる。
私にはそのどちらも持ち合わせていなかったし、それ以外もなにも持ってない。

私をここまで生かしてくれたのに、たくさん愛情をくれたのに、私はそれに見合うだけの人間にはなれなかった。

こんな考えしか出来なくてごめん。
こんなことしか出来なくてごめん。
こんな生き方しか出来なくて、ごめんなさい。

両親がこんな私を責めてなどいないことも、とうにわかっている。
だからこそ、申し訳ないとおもったのだ。
もちろん、私は両親のために生きているのではない。
両親の言いなりになることを言っているんじゃない。

でも、両親に、私を産んだこと、育てたことに対して後悔してほしくない。
「両親が、生み育てたことを後悔するような私」は、私のなりたい私ではない。
だから死ななくてよかったと、死ねなくてよかったと、今は心から思える。まだ、私は取り返しがつく。

両親に後悔してほしくないのも、私の“認められたい”気持ちが本質にあるエゴなんだろうこともわかっている。

だから、両親が恥じない私というより、両親に恥じない私でありたい。
そのためにどうすればいいのか、実はまだ、なにもわかっていないのだけど。
だって20年も、惰性を謳歌して生きてきたから。
努力だってまだ好きになれない。
明るい将来だって、あまり上手に描けない。

けど、私はもう死にたいとは思わない。
たぶん、少しは前向きになれているとおもう。そうだったらいいな。


結局今日もとっ散らかった文しか書けなかったけど、これも、いつも通り自戒にしか過ぎない。
未来の自分、この気持ちは、忘れないでね。



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2023年は、月イチnote更新目指します。
本年もおそらく生産性ゼロな記事しか書かないと思いますが、よろしくお願いします🐰



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